雨が吸ってくれるもの☂️エッセイ
雨は凄い。雨が降った後の空気は透明度がちがう。空も空気もくっきりと澄んでいる気がする。
雨と風が合わさった天候が明けた日の空は凛としていて、清涼感を味わえる。
汚れた空気を風が回して雨が流していってくれたのだ。
動きをつけて浮かばせて、水で汚れを落とす。洗濯機と同じだなと思った。
その雨をよく眺めてみると、雨粒の大きさが雨によってちがうことが分かる。きのう降った、窓ガラスについた細やかな水滴の数は、私たちが生きる中で自然から受ける恩恵の数なのかもしれないと思った。雨風で空気が洗われて、太陽の光によってそれが乾く。陽の温もりは私たちに心へも明るさを届けてくれるし、雲の運びはいつだってゆっくりで、見上げると静の時間を過ごすゆとりを教えてくれる。生きる中で欠かせないエネルギー源の水と光。そのどちらもをいつも休むことなく、空から自然と与えられていることに気づく。
きのうの夜は、夏と秋の間の匂いがした。季節によって風の温度や匂いが変わることも、恩恵の一つだと感じる。この変化を体感する自分自身の五感が、研ぎ澄まされれば澄まされるほど、私たちは日々どれだけ豊かな世界を生きているのだろうと思える。
秋は物事が滑らかに動くイメージがある。夏から秋、そして秋から冬が始まるまでの期間だけが放つ、のびやかな涼しさが私の心を平らげてくれる。その心や気温に合った茶色の景色が色づいていくのも、また心地良い。
季節は四つだと謳われているが、正直なところ
“四つの季節のめぐり”が均等にやって来るというよりも、“夏と冬と、その間の期間”という感覚がしている。
春と秋の期間の短さが単にそう思わせるのかもしれないが、期間が長くないと分かっているからこそ貴重に感じる、という節もあるのかと思う。春は始まりの季節といった印象があるが、何かが実際に始まる節目としては多くとも、まだはじめたてでイメージが先行している状態が濃く、どこか浮足だった気分だったり必死に新しい環境に慣れようとする姿勢が少し力みを生んでいたりすることが多かった。新しい変化を「自分に身につけよう」と食らいついて、前のめりになっている感じ。刺激も多くて何かが始まった実感は確かにあるのだが、その変化に体や心が追いついていないみたい。新品な靴がまだ足に馴染んでいない状態で駆け出しているような感覚なのだ。
その分秋は、足がすっくりと地についた状態で具体的に何かを始めるのにもってこいな時期だと感じる。冬から春、春から夏とは違って、気温の変化とはいっても、ゆるやかに涼しくなっていく様が春ほど体調を崩しやすくはないイメージだし、取り組みはじめた物事が、自分の日常の一部としてかなり馴染んで来ている頃だから何かに意気込んで肩肘張っている時間も少ないように思う。
そういった風に秋は、柔らかさと落ち着いた時間が、自分をスムーズな変化の道のりへ動かしてくれやすい感覚がする。そんな自分の固くないモチベーションやみずみずしい気持ちが、スイスイと泳ぐみたいに自然体で変わっていけるのだろう。
秋の夜長に聴くせせらぎの音なんかは、リアルタイムで自分の内面を洗い澄ましていってくれて心地がいい。変わって夜が涼しくなって来る分、朝の陽のぬくもりも感じやすく『寝る時間』と『起きる時間』が自分の中ではっきりとする感覚もある。一日の始まりには窓を開けて、新しい『今日の風』を感じることで気分もさっぱりとして来る。そうやって自然の変化といった四季や天候からの恩恵を主体的に自身へとり入れて、自分の内面を洗い、エネルギーを入れ替えて循環させることは、自分の感覚に耳を澄ませることにも繋がってとてもすっきりとした体感で日常を暮らせる。
もう少し見える景色が秋づいて来たら、また散歩がてら涼やかな落ち着いた秋の色を探しにいきたいと思う。
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