私の話。日記🍁

自分しか知らない『自分だけの宝物』みたいなものと、自分から湧き出て来る『誰かに伝えたい想い』がどちらも存在していて、面白いくらいのバランスを保っている。

何かしらのカタチをとおし人と交わることでしか得られないものと、どれだけ変わってく環境の中に居ても、周りからの圧で消えてしまわないよう自分の腕で“自分の中だけで”ずっと守りたいと感じる記憶や思い出がある。

人と話したり繋がりを持つことの中で生まれる良さは、アウトプットとインプットが循環することと新しい視点を養えることだ。
自分の中だけで守る記憶の良さは、こんなに大きな世界に住まいながら『自分だけのオリジナル』といった、自分のためだけに存在しているものが常に自分とともに在ることである。

そのどちらもが存在しているから、今の私が成り立っている。
過去の話をする時、ひと呼吸ついてどこまでの思い出を外へ出そうか、すごく選んでしまう。
『守りたいもの』と『話したいこと』の境はまだここだと決まり切ったわけではない。ただ今年になって、そのボーダーラインは少し動いた。

自らの体験を『自分以外』に見せてこそ、その時初めて“経験が完了”したなという感覚をも同時持っていて、それは自身の経験を人へ見せることで、『意図せぬ何か』を自分以外の人へつなげているかもしれない感じがするからなのだ。
自分でも想像知り得ない、“これから先”いつかの将来で、他人が私のひと言やエピソードを思い出して少しだけ行動を変えてみようと思うことがあるかもしれない。行動を変えるまではなくとも、少しだけ口角の上がる時間を過ごすことに繋がっていたり“楽しかった”温度を思い出してくれる夜があるかもしれない。その頃には、その人とはもう会っていなくて“互いに過去のひと”になっていることだって全然あると思う。
だけど人生で起こることって、全部が自分の中だけで「完結」できるものじゃないよなと感じる。
「完成」しなかった感覚のものでも、人へ話すことによって何かの影響をつなげているかもしれない。それってすごく面白いよなと思ったのだ。

これまではひとりだけで楽しんで来た『宝』が多かったのかもしれない。もう時効(思い出をひとりじめすることが)だと感じる話は、ずっと自分の中にだけコレクションしているのではなく、外に放ってみようかなとも思えるようになって来た。
そもそも経験を話すことって、人にあげて自分から何かが減るのではないのだから、遠慮なく見せて一緒に語れたら楽しいかもしれないな。これは『自分だけのこんぺいとう』みたいなものだから、人からすると「大したこと」ではないのかもしれない。勝手に勇気を持って話しても、翌朝には何にも覚えていないかもしれない。そういった自分と他人の重力の差みたいなものに、はたまた勝手に救われることもあるよなと思う。

だけど今、そのこんぺいとうを人に見せてもいいかもと心境が動いていっている、自分のその変化に『それもまた面白いね』と思っている。

どちらにせよ、自分が好きな気分とタイミングで言葉を紡いでいくことに変わりはないのだから特段この話はしなくてもいいのだけれど、あえて文章に換えてみた。人生は面白いし、色々語ってみるのもまたいいんだろう。

外へ見せていく思い出も、これからも自分だけで慈しむ記憶も、どちらも大切にしていきたい。

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