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おじいちゃんと孫

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私の父と息子の思い出の記録です。 じいちゃん好きの孫。じいちゃんも自慢の孫。友達みたいに仲良しな2人。でも、お別れしなきゃならない運命の物語。
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#おじいちゃんと孫

おじいちゃんと孫 (産まれるまでのお話)

おじいちゃんと孫 (産まれるまでのお話)

父はおおらかで優しい人だ。
反面、頑固で融通が効かない。

敵と味方が同数存在するタイプの人。

高校は1日で中退。
会社も使われるのが嫌で、個人で起業。
しかし、バブルが弾けて我が家も弾けた。

母はアルコール依存症で嘔吐過食症。
隠れて飲んでいても、アルコールが入った嘔吐の悪臭が漂う家。

私の性格はネジ曲がり、母の機嫌を取る係りとして自我を消していった。
毎日、泣きながら疲れて眠った。

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おじいちゃんと孫(2人のおじいちゃん)

おじいちゃんと孫(2人のおじいちゃん)

私は産休のみを取って会社にに復帰した。

それは、義父母が「私達が面倒見るから、働けるうちに働きなさい!」と強く推された事と、お金の苦労をさせたくないという思いからだった。

同居といっても別棟を建てて、共有スペースのような状態ではあったが、義姉にも幼子がいた事もあって、昼は義家族が見てくれているという状態だった。

私も嫁に来たのだから、実家には頼らず、その代わり義父母の面倒は最後までみる覚悟だ

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おじいちゃんと孫(夜逃げ風 大作戦)

おじいちゃんと孫(夜逃げ風 大作戦)

義実家はいつも騒がしかった。
正月、それぞれの誕生日、父の日、母の日、ゴールデンウィーク、お盆休み、クリスマス。毎月何かしらのお祝い事があって、全員揃って食事会。お盆休みには10人前後で親戚が泊まりに来る。

それに加えて、田舎だから子供会があって、数ヶ月に1回行事があり、町内のお祭りも強制参加。

何にしてもお金が掛かったて、手間も時間も削られた。

子供達にとっては、楽しい行事。
大人にとって

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おじいちゃんと孫(最強コンビ誕生)

おじいちゃんと孫(最強コンビ誕生)

旦那の実家を捨て、絶縁状態となり格安一軒家での家族四人での生活が始まった。

息子はギリギリ通える範囲にあって、中学は変えず、娘は小学校を転校した。

何とか学期末のタイミングで手続きが出来て、自分達だけの生活が始まった。

私も父の所でパートをしながら、息子や゙娘の送り迎えをしたり、今までより倍以上の敷地の掃除に戸惑いながらも、静かな生活に張り詰めていた気持ちが落ち着いていった。

それと同時に

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おじいちゃんと孫(平和な日常)

おじいちゃんと孫(平和な日常)

息子が高校生になり、アルバイトを始めてると、父との仲はさらに良くなった。

父は決して怒らなかった。からかいながら、簡単な組み立ての仕事を教えて、ちょっかいを掛けて、休憩中にはおしゃべりが止まらない。

周囲の人達も、「お孫さんが手伝ってくれるなんて嬉しいね。」と、和やかな雰囲気で歓迎してくれていた。
父もまんざらでもない表情で、煙草に火を付けるのだった。

70歳もうすぐで来るというのに、大きな

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おじいちゃんと孫(最後の大仕事)

おじいちゃんと孫(最後の大仕事)

最初は手汗が凄くて怖い。と言いながらも、運転を覚えた息子は、じいちゃんと2人で出掛けて行った。

仕事の手伝いも続けていた。

ただ、70歳になると父の様子がおかしくなっていった。

コロナも終息しつつあって、泊まりでも出かけられそうだと話をしていた頃。

京都に出張で行って帰ってくると、目が霞んで見えにくい。と言い出し、眼科で検査するものの異常なし。

膝が痛くて、整形外科に相談するも異常なし。

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おじいちゃんと孫(弱っていく体)

おじいちゃんと孫(弱っていく体)

父と息子は京都に行った。
車で7から8時間掛かる距離だ。

何事も起きないでくれ!と願い送り出した。

途中途中で、写真が送られてくる。

無事到着。
交代で運転しながら、まずは前半終了。

この頃には父は既に、少し歩くだけで息が苦しそうになっていた。

それでも、次から来なくても大丈夫な様に現地の人達に指導をしていた。
息子は昼間は観光し、父の仕事が終わると、観光がてら食事をした。

「バス観光

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おじいちゃんと孫(入院と覚悟)

おじいちゃんと孫(入院と覚悟)

病院に到着すると、すかさず車椅子に父を乗せた。
電話で事情を話しておいた事もあって、看護師さんがすぐに対応してくれた。

個室に案内されて、体温、血圧、酸素濃度測定。
父の咳は痰がからんで、落ち着かない状態だった。
「酸素濃度低いね。苦しいよね?すぐ酸素持ってくるから。」
酸素を投与してもらいながら、順番を待った。

息子は近くで、ただ寄り添っていた。

私は、来ないと分かっていたが兄に連絡をした

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おじちゃんと孫(誕生日の約束)

おじちゃんと孫(誕生日の約束)

父の握り拳程あった肺がんが破裂し、肺炎になって緊急入院。

担当医からは「覚悟しておいて下さい。」と言われたが、私は人間は意外としぶといと思っていた。

しかも、父はそんなに簡単に負ける人じゃないと信じていた。

そして数日後、本人から連絡がきた。

「特別に時間をもらったから、病院に来て話がしたい。お前だけで良いから。」

そう言う父の声は途切れ途切れで、苦しいながらも絞り出すように話をした。

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おじちゃんと孫(家に帰りたい思い)

おじちゃんと孫(家に帰りたい思い)

入院して1か月。

肺炎は治っていたが、肺がんの破裂した方の肺が肺気腫になっていて、背中からの管が外せない状態が続いていた。

仕事はラインでやりとりしながら、色々な事を工場を間借りしている同業者の会長に頼んでくれていた。

直接的な話は、私が専務としていて、働いてくれていたパートさんは移籍という形にして、私だけが父の会社に留まり、残務処理をひたすらやっていた。

銀行。
市役所。
職安。
労働安

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おじいちゃんと孫(2ヶ月ぶりの帰宅)

おじいちゃんと孫(2ヶ月ぶりの帰宅)

余命宣告を受けた父。

抗がん剤はやらないと言った。

そもそも肺気胸の治療に時間が掛かった。
毎日の様に、事務仕事や引き継ぎの話をしたかったが、治療に専念して欲しくて、私から連絡する事はあまりしなかった。

肺気胸は肺に穴が空いている状態。父の場合は手の拳程のがんの塊が破裂し、あちこちにダメージがある状態。

1度で終るかと思っていた処置が、2度、3度と繰り返し行われていた。

「今回もダメかも

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おじちゃんと孫(ドキドキ退院1日目)

おじちゃんと孫(ドキドキ退院1日目)

父の癌は、脳と肝臓、骨にも転移があった。

一時退院の時で既に、目が見えにくい状態で、手に力が入らず書く事もままなかなった。歩くリハビリも始めたばかり。

それには、本人の孫の誕生日に絶対帰りたいという思いに、何とかしてあげたいと奮闘してくれた看護師さん達の力があった。

初日は、帰りながら1週間、何ともなければ何をしたいか予定を話ながら帰った。

電話で話をするよりも、直接話す事の温かみを感じで

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おじいちゃんと孫(生き生きとした顔)

おじいちゃんと孫(生き生きとした顔)

1日目は家に戻ってきて終わった。
とにかく無事に家に到着して、一晩何も無かった事に安心しつつも、1週間の予定はきっちり決めていた。

2日目は仕事場に行く事。

本当はちゃんと食べる物も全部作りたかったが、時間がとにかくなくて、朝は菓子パンとなってしまった。

「久しぶりの熱いコーヒーだ。」

1度家に帰り、訪問看護の人が来る時間まで自分の身支度をして戻る。
すると、父はただ嬉しそうにコーヒーメー

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おじいちゃんと孫(反省だらけの1日)

おじいちゃんと孫(反省だらけの1日)

3日目(水曜日)は2日に1度の通院。
朝は少しゆっくりして、混むと聞いていたし、昨日の疲れもあるかと思って、10時頃出発にした。

その頃には、あれだけ注意されていた背中から出ているチューブの扱いも慣れてきたようで、移動も慣れてた手つきで廃液バックを下げて出掛ける支度をしていた。

「お昼はどこかで食べられたらいいなぁ。」

病院までの移動は高速道路を使う事にした。
長時間の移動は体に負担が掛かる

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