雑感記録(128)
【多忙の日々だが本は読みたい】
コロナになり予定がかなり大幅に狂い、この1週間は多忙を極めている。何か物事が色々と決まっていくとそれに向けて一気に動き始める。自分自身でも驚いているのだが、自らここまでアクティヴ(という表現が妥当かは些か不明ではあるが…)に為れるとは…。必要なことであるとは言え、ここまで動けているのはもはや恐怖すら感じてしまう程だ。
僕は元々腰が重い人間だ。何かしようと思っても、まず真っ先に思い浮かぶ言葉は「めんどくさい」だ。それが自分にとって愉しいことであってもだ。加えて僕が僕自身を1番「めんどくさい」と思う点は、計画するまでは愉しいのだが、それをいざ実行しようとすると「めんどくさ」くなってしまうことである。つまりは、極力自分の身体を使いたくないということなのだろう。
しかし、こうして自身の身体にもある意味では影響してくる訳で、「計画して、はい、お終い!」ということは出来ない。僕はここ数日そういった「めんどうくさ」さと闘いながら過ごしている。とここまで書いてみたが、僕は甘い人間だなと思う。世の中全てが全て自分の都合の良いように出来てはいない。僕がたった数文字書いたこれらの言葉は傲慢以外の何物でもないのであると書きながら反省する。
無事に月曜日に物件が決まり、そこから引越しの手配やら荷造り、賃貸物件の契約手続き、銀行の手続きなど様々な雑事をこなしている。最近は大抵がインターネットで完結するので「便利な世の中になったな」と僕は「便利さ」を多大に享受しながら事を進めている。以前の記録でクソミソに「便利さ」について書いた訳だが、そんな事を書いた人間がだ!ちゃんちゃらおかしな話ではあるが、便利なものは便利だということは身に染みて感じた。
今度住むところは東京になるので、現在は東京と山梨を往復する生活が続いている。物件の打ち合わせだったり、新しい会社との面談であったりと色々とが重なり結構忙しい。大抵午後からの打ち合わせが多いので午後東京に着くように電車に乗ればいいのだけれども、遅刻したくないので僕は朝早い時間から東京へ向かう。そうして神保町へ向かい本を沢山買い込む。引越し前に荷物を増やしてどうするというのか…。
しかし、忙しくても本は読みたいのだ。僕の読書欲はもはや「欲求」ではなくて「欲望」なのかもしれない。荷物が増えようが何だろうが、それでも手元に読める本が欲しい。常にすぐに読める状態でありたい。僕にとってはそれぐらいのことなのである。忙しくても本は読みたい。いや、読まねばならないのだ。
それにしても最近は本当に小説を読まなくなってしまった。直近で読んだのは市川沙央さんの『ハンチバック』、中村文則さんの『銃』と『教団X』ぐらいなものだ。『ハンチバック』については純粋に作品を愉しむというよりは「どんなことが書かれているのだろう」というある種分析的な視点で読んでしまったので愉しかったかと言われると答えは否である。
中村文則さんに関しては、これも以前の記録で少し触れたが使用しているマッチングアプリの人からオススメされて読んだ。正確には『銃』は読んだが、『教団X』については今も読んでいる。これらはどちらかと言うと純粋に愉しめている読書で、読んでいると結構面白いところがあったりして適度な刺激を与えてくれる。
しかし、何と言えばいいのだろうか…。やはり僕は小説に於ける性描写があまり得意ではないかもしれない。無理矢理に性に紐づけて書かれたものを読むと何だか愉しさをあまり感じない。無論、だからと言って「性描写がダメだ!」とか「性描写ばっかでクソだ!」みたいなことを決して言いたい訳ではない。ただ、極々稀に読むに耐えない性描写と言うのもある訳だ。
中村文則さんの場合は特段そういった感情を抱くことは無かった。とりわけ『教団X』なんかは言ってしまえば宗教の中、秘匿された内部を描く訳だから性世界の特質と言うかそういった構造と非常に合っているので、むしろ性描写がない方が違和感あったかもしれないと思うぐらいにはすんなり読めている。ただ、やはり露骨な性描写は僕は苦手かもしれない。
僕は今まで読んできた作品で1番美しい性描写だと感じた作品がある。それは古井由吉さんの『杳子』だ。性描写にあれほどまでの美しさを感じたことは今までない。谷崎潤一郎を読んでも「いいな」とは思うけれども、そこまでの感動はない。無論、その性描写が谷崎いううところの「構造的美観」を形成しているという点に気づいた時には感動したりもしたが…。
でも、不思議だと思わないか。大体良い作品と言われるものには性描写が少なからずあるし、そういったものが評価される傾向にあるような気がしてならない。現在は「多様性」が叫ばれる世界ではあるが、何だか文学(というものが果たして現在残っているかは別として)というのはあくまで「性」というトピックに関してのみ「多様性」を見出しているような気がしてならない。
勿論、「多様性」というのを僕は否定したい訳ではないし「それを書くな!」ということを言いたい訳では決してない。ただ、余りにもそれが常道としてまかり通っていることに疑義を感じているだけのことに過ぎない。何というか作品の構造上それが必要であるとするならば、それはそれで構わないのだが、ただその「多様性」を示したいという作者の我欲を満たすためだけに描かれるのは些かどうかと感じてしまう。
それで僕はいつもこういう話をする時に必ず引き合いに出すのが保坂和志だ。僕はもはやある意味で彼の信者みたいなところがあるから、まあ危険っちゃ危険なんだが、言ってることの感覚というか肌感は凄くよく分かる。あとは純粋に作品が好きってのもあるけれども…。
僕は彼の小説で『季節の記憶』が1番好きなのだけれども、その作品の何が1番好きかと言うと「何も起こらないことが実は1番の事件である」ということを教えてくれる作品だからである。ちょっとこれは誇張した表現になってしまうのだろうけれども、少なくとも僕はこう感じた。
別に大きな事件が作中で起きる訳でもなく、かといって何か1つの目標や標的などに向かって話が展開していく訳ではない。ただ作中人物が日々感じたことや考えたことが描かれるだけである。ただ、それだけでも十分いや十二分に愉しめる作品なのだ。
こちらとの「生活感」により近い形で描かれているので、読んでいる側も作品に没入することが出来る。もし、これが性描写にまみれていたら没入することは出来ないだろう。出来たとしたならヤリチンかヤリマンのどちらかだ。
何か物を書くときに僕は常々思うのだが、1つの書きたいことを決めてそれだけについて書くことが出来るのは凄いなと思う。小説でも漫画でもなんでもそうだが、1つの中心点に必ず帰結するように話を持って行く技術は凄い。それが良いことかどうかは置いておくとしてもだ。そこに至るまでのプロセスを無理矢理にねじ込むのだから骨が折れる。
僕はどうも書きたいことが時たま飛び飛びになってしまうことがある。現に性描写の話をしてたのに、こんな話を書いていう訳なのだから関連性がないっちゃ関係ない。でも、僕自身はこれが「書く」ということだと思っている。そしてそれは同時に「読む」ことでもあるとさえ感じる。
そういえば、こんな忙しさの中でも中学生の同級生とランチをしてきた。こういう時間は常々大切にしたい。パンケーキを喰らいながら2,3時間談笑して過ごした。
友人とはわりと会っていたりするので正直話すことあるのかななんて思ったりもしたのだけれども、会うと話したいことが湯水のごとく溢れ出て来る。不思議なものだと思う。自動的な装置が働いて、言葉が言葉に触発されてあらゆる方向へ話が進んで行く。こういうところが友人と会うことの1番の醍醐味である。
話をしていく中で、ふと彼女が「私は真面目な話がしたいんだよね。」という風に言った。続けて僕とだと気兼ねなくそういう真面目な話が出来るから楽でいいとも言われた。僕にとっては嬉しいことこの上ない言葉だ。というより勿体ない言葉だ。いい友人を持ったと改めて思う。
彼女の言うことは凄くよく分かる。僕も結構真面目な話をしたいタイプというと些か変な表現にはなるが、そういった方が好きだ。勿論、「昔はあんなことしたよね」とか「今仕事がさ…」といったような話をすることも愉しいし重要であるが、それ以上に「こういうことがあって、どう思う?」というような相手の深い所にのめり込んでいくような方が僕は好みだ。
言葉が言葉を誘発して、その人の深いところまで落ちていく。これも1つの醍醐味だと感じる。そういう中で会話すると1つの方向ではなくあらゆる方向に対して言葉が指向性を持って飛んでいく。そこにこそ僕らの生活が凝縮されている。つまり、小説や何でも物を書く際にある1つの回収点に収斂するのは本来的ではないと僕には思えてしまう。
忙しい。本当に最近は忙しい。それでも本は読みたいから読む。ちなみに現在読んでいる本たち。
・中村文則『教団X』
・ルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』
・金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』
・佐々木敦『新しい小説のために』
・ラカン『ディスクール』
・ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』
本当はもうちょっと読みたい。よしなに。
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