クラシックやジャズが「わからない」という意見に対する「わかる/わからない論争」について
いきなりですが、以下をお読みください。
上記の作品は、有名な漢詩です。
これを読んで、どう感じますか?
「どう感じるかと言われても・・・」
「・・・“わからない”」
そう思いませんでしたか?
では、今度はたとえば、漢文のおもしろさを知っている側になったとして考えてみてください。「漢文の鑑賞をもっと広めたい、漢詩の世界を伝えたい!」という場合、
「漢文は難しくてわからない」という学習者側の意見に対し
「まずは読み方、読むために必要な書き下しの方法や、押韻など使われている技法の鑑賞ポイント、作者について、時代背景などを噛み砕いて知ってもらおう」
と考えるのは妥当なことではないでしょうか?
しかし、そんなところに、以下のような意見が溢れます。
「芸術というものは、文法や理屈で鑑賞するものではない!」
「考えるな、感じろ!」
「私もまだよく“わかっていない”が、楽しめる」
「わかろうとすることが愚かだ」
「わからないままでいい」
・・・はぁ?
と、思わないですか?
これが的外れな意見であることは、この漢文の例だとすぐにわかるはずだと思うのですが。
このような意見に溢れているのが、音楽界なのです。
この漢文の例において「わからないままだけど楽しめている」と主張する人がいたとして、その人は「(高度な何かが必要とされる深い読解については)わかっていない」と謙遜しているけど、そもそも前提として最低限の読み方は実は既にわかっているから楽しめている、ということでしょう。つまり、「無自覚なエリート」だと言えます。
そうでなければ、本当に文の意味が理解できていないのに、漢字フェチなのか意味不明のまま中国語の発音の響きをイメージで楽しんでいるやべーやつです。
クラシックやジャズなどの難しい音楽ジャンルについて「わかる/わからない」議論というのは昔から何度もある話です。一般的な感覚として、クラシックやジャズが「わからない」と感じるのはごく普通の感覚でしょう。
そして、そのような意見が出る場合としては大抵、「聴いてみようとしたけど、聴き方がわからない。楽しみ方がわからない。良さがわからない」という意味であることも明白だと思うのですが。
この場合、重要な点としては、「馴染みのない音楽ジャンルにも歩み寄ろうとしたけど断念した、みたいな人に対し、どう手を差し伸べるか」という部分ではないでしょうか。
それなのに、「わからないままでいい」という答えばかりで辟易します。「わからない音楽があることが自然」というのはその通りなのですが、そこから「わからないままでいい」とする結論は、「断念するような奴は近寄って来るな」という意味にも感じて、僕には違和感があります。
そういうことを言う方っていつも、何故か名言や格言のような雰囲気で「わからなくていいじゃん!」とイイヤツ風を醸し出されるのですが、貴方は「わからなくても楽しめている」人でしょ。
こっちとしては「わからない」という語を「楽しめない」という意味で言っていて、かつ「楽しみたい」= 「わかりたい」という問題意識なのに。
「わからなくていいじゃん!」は「わからなくても楽しめる人だけ楽しもう」「楽しめない余所者は近寄ってくるな」という意味に聞こえ、ものすごく疎外感を感じます。悲しい。
さらに、「わからないままでいい」どころか、「わかろうとすることが悪」「わかることを押し付ける教養主義によってハードルが高くなる」という意見まで溢れます。
確かに、興味のない人に対して無理矢理に趣味を押し付けるような行為は良くないでしょう。「わかっているやつがわからないやつを見下すのは駄目」「勉強することを強制することで楽しくなくなり衰退を招く」という意見自体も正しいとは思いますが、よく考えると、論点はそこではないはずです。繰り返しになりますが、この議論は「難しい、わからない」と感じる人にどう手を差し伸べるかというところが大切なのであって。
野球観戦に興味があるけど野球のルールや選手たちのことが「わからない」人に対して、詳しい人が情報を教えてあげること、わからない人がルールを理解しようとすることは、ごくまともなことでしょう。この行為のどこが「悪」なのでしょうか。
野球有識者が観戦初心者に対して「試合のルールやチームの情報を知ろうとなんかせずに、ただただ熱量や魂のぶつかりを心で感じろ!!」って言ったところで、その有識者は既に前提に野球のルールやチームについてのこと、選手たちの情報などがしっかりと頭に入ってるからこそ、試合を楽しめているわけで。「ルールの理解を強いることが教養主義で悪であり、野球観戦の敷居を上げている」などという意見は暴論で的外れじゃないですか。
「わかる/わからない」議論が勃発したときに必ず湧いてくる「わからなくてもいいから楽しめ派」の奴らって、まず「わかる」の基準を高く設定しすぎなんですよ。「わかる」という語を、「ある程度既に鑑賞を楽しむことができている上での次段階の"高尚な哲学の理解"」というような意味で言っているから、話が噛み合わないんです。
「わからなくてもいい」じゃないんです、「わからない」側にとっては、既に楽しめている人達が既に前提の常識としている部分にハードルがあるんです。
「わからないけど、わくわくする」「わからないけど良い」 ……そうやって楽しんでるあなた方は、既にエリート側、ある種の教養を持っている側なのではないですか。既に楽しめているそんなあなた方に、楽しむためにわかろうとしているこちら側を否定されたくない。
難しい音楽について伝えたり翻訳していくにも様々なハードルがあるため、そんな努力をしてまで広める必要はない、ニッチなままでいいだろう、と考えている「諦め派」もいるでしょう。それならば(いけすかないけど)まだ共感はできます。
しかし、 業界に危機感を抱いていてもっと文化を広めたい、より良くしたいと考えている人が「わからないままでいい」「〈わかる/わからない〉で芸術をとらえることが問題」などと言っているのが本当に不可解でならないです。
ちなみに、僕がこのような立場をとるようになったのは、実際に、もともと楽しめなかった様々な音楽ジャンルが、聴き方や楽しみ方が「わかる」ことで、聴けるようになった、という体験を複数回経験しているからです。
「わかる」というのは、「そのジャンル特有のルール、文化、楽しみ方」=いわばその文化圏の「内輪ノリ」を知ることです。
たとえば、モダン・ジャズの音源は、そのまま聴いてもやたらと長いです。冒頭はカッコイイと思っても、すぐによくわからなくなって飛ばしたくなったりします。一般的にジャズは「オシャレっぽさを演出するBGM」としか捉えられていないでしょう。しかし、
【各パートが順番に、テーマのコード進行を繰り返してアドリブソロが展開される。その駆け引きを楽しむ】というような、いわばスポーツ観戦の手引きを体得することで、僕はジャズの聴き方を理解して楽しめるようになりました。
あるいは、旋律の無いミニマルテクノのようなディープなクラブミュージックにおいて、「ただただ同じような機械音が繰り返されていて何が良いのか?」と思っていたけれど、
【リズムに乗って身体を揺らす。グルーヴを楽しむ。音の増減や微細な変化によって、テンションがコントロールされる。グルーヴが変化してから元に戻るときなどの"ご褒美"のタイミングが心地よい。】といった聴き方のポイントを教わることで、楽しめるようになりました。
そもそも、僕は鍵盤に触れて育ったので絶対音感があり、「メロディやコードそのものを聴く」という聴き方をしていて、歌を聴いても歌詞が入ってくることはまずありませんでした。しかし、アーティスト本人が
「歌詞のこういう部分にこだわりました」
「こういう意図、ストーリー、思いがあって、こういう曲になりました」
と説明しているのを受けて、それを意識することで、
【歌詞まで含めた曲の受け取り方】が
わかるようになったのです。
「わからない」から、楽しめない。
「わかる」ことで楽しめるようになった。
だから、もっと「わかりたい」。
至極健全だと思うのですが、何故これが駄目なのでしょうか。何故これが「教養主義だ」って批判されなきゃならないんでしょう。
「音楽は"音"を"楽しむ"」「頭ではなく心で感じよう」みたいな意見って、聞こえは良いんだけど、楽しむためにまず心ではなく「頭」から入ったり「音"学"」から始めるルートも認めてもいいでしょう、と、思うんです。
みたいなことを以前Twitterにダラダラと書いていたら、このようなツイートが流れてきました。
このツイートだけでいいじゃん。笑
わかりやすい。僕の言いたかったことが端的にあらわされている。
こういうことです。笑
頑なに「芸術を〈わかる/わからない〉で捉えるな!」とか言ってこの話題に首を突っ込んでこられる方は、つまりこの美術館の例で言えば、美術館から一切の文字情報やパンフレットを排除し、ただただ「絵」そのものを凝視する行為だけを楽しめ、ということを仰られてるのと同じだと思うのですが、それで本当に良いとお思いなのでしょうか。「美術館の説明書きというものはハードルを高くする悪であり、それを取り除くことで親しみやすくなる!」とお考えなのでしょうか。美術館から文字案内を取り除くなんてことをしたら逆に敷居が高くなるとは思いませんか。
僕が言いたいのは、そういうことなんです。
でもまあ、ここでさらに言うとすれば、結果として別に楽しめなくても良いんですよ。楽しむよりも前に、まず「わかる」ほうが大切ではないかとすら思うんです。
音楽以外の様々な分野に関しても、「知識を知る」「勉強する」その行為自体のおもしろさや大切さってあるでしょう。
なのに音楽という分野に関してだけ、
楽しめないジャンルについては、知らないままで良い?
知っているジャンルについては、必ず楽しまなければならない?
そんなバカなことはないでしょう。
楽しめないジャンルのことだって知っていって、「わかって」いけばいいのではないですか?
世の中には、好きなジャンルだけでなく、自分に合わない価値観だって山のようにたくさんあるでしょうが、そういうことについても知っていくことで、「多様性」「多文化理解」にまで繋がるのではないですか?
冒頭の漢詩について、内容に深く共感して鑑賞することができなかったとしても、時代背景や作者の意図、使用されている技法を知ることで「へぇ~そうなんだ~」と「わかる」ことはできるじゃないですか。
そういうことです。
このような僕の考えって、自分ではとてもまともな意見であると思って長年主張しているのですが、なかなか共感されません。
これってそんなに世間からズレていておかしな立場なのでしょうか?