【分野別音楽史】#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
前回はイギリスの「ミュージックホール」を中心にした大衆劇場の音楽史を追っていきましたが、今回はそれと対応するアメリカの系譜として「ミンストレルショー」について見ていきます。この内容は人種差別的な話を多く含む範囲であることも念頭に置いてお読みください。また、ここまでの記事の内容であるクラシック音楽史や吹奏楽史、イギリス音楽史と時系列を照らし合わせながら読んでみるのも面白いと思います。
◉アメリカ植民・侵略~独立まで
1492年、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」。アメリカ先住民たちは「発見」以前にも音楽を持っていたようですが、呪術の道具としての役割などで音楽が用いられており、ヨーロッパ文化との融合は無く、ヨーロッパ人たちに理解されることはありませんでした。
17世紀初頭になると、イギリス人によるアメリカ大陸への侵略・植民が始まります。1620年、信仰の自由を求めて、メイフラワー号に載ってマサチューセッツに植民地を設置した「ピルグリム・ファーザーズ」、つづいて、イギリス国教会を改革しようとしていた「ピューリタンズ」が1630年。
このころのヨーロッパ音楽は、ルネサンス末期~バロック初期の対位法的な音楽が主流でしたが、華美なオルガン音楽をカルヴァン派が許さなかったため、アメリカにまず持ち込まれたのはアカペラ・無和声による詩編唱でした。やがて崩して歌われたり、装飾を加えて歌われるようになり、アメリカ民衆音楽の始点となります。シンギング・スクールも登場し、若者らの社交の場となっていたといいます。
18世紀に入ると植民が進み、生活者に余暇ができ始めます。ヨーロッパから職業音楽家が来航し始め、オペラも流入してきました(※ヨーロッパ大陸側のバロックオペラではなく、イギリス式のバラッドオペラだった)。
その一方で、スコットランド民謡を基調とした作品も親しまれました。シンギング・スクールの伝統は南部へ移動し、そこでアイルランド民謡的な讃美歌集が登場します。その中には現在でも有名な「オールド・ラング・サイン(蛍の光)」や「アメイジング・グレース」なども収録されていました。
さらに、吹奏楽史の項で触れたように、独立戦争前後では「ヤンキー・ドゥードゥル」といった愛国歌が人気となりました。
◉アメリカ独立から19世紀へ
旧ヨーロッパ文明から見て、アメリカは近代国家建設の「新世界」であり、先住民の文化は「克服すべき自然」「排除すべき障害物」でした。そういった背景を持ちながら、18世紀末に、ついにイギリスからの独立を果たしたアメリカは19世紀に入って政治体制の骨格も整い、ついに文化面からも地盤を固めていく時代になったということになります。
ヨーロッパ各地からの移民や、ユダヤ系移民なども増加し、さらに、イギリスの産業革命の発生に伴ってプランテーション農業のための黒人奴隷の必要性も増加し、投入されました。そういったタイミングで、「ヨーロッパ本国」とは別の、雑多なアメリカ的特徴の複合文化が定着していきつつあったのです。
ヨーロッパ直系の高級文化や紳士的な文化とは異なる、一般大衆の文化を求める機運が広がりつつあった中で、白人達は「黒塗り」のキャラクターを用いた差別的な演劇を通じて団結していったのです。
一般的にその先駆的なキャラクターだとされているのが、トーマス・ディクソン・ライス(1806~1860)が歌って踊った「ジム・クロウ」だと言われています。南部の田舎で足に障害のある奴隷少年が路上で歌い奇妙な振りで踊る姿を見て、それを茶化して面白がり、演目に取り入れたのが始まりとされています。白人が「黒塗り」で黒人に扮した道化的なパフォーマンスが1830年代に急速に人気となり、歌って踊った「ジャンプだ、ジムクロウ」という楽曲は全国的なヒットナンバーとなりました。
このようなパフォーマンスが、はじめは簡単な幕間の茶番劇として始まり、1840年代には「エチオピアの図解者(Ethiopian delineators)」という一座を結成して、単独や小さいグループで公演するようになりました。
時を同じくして、ブラックフェイスの複数の芸人たちによって一晩物のショーが演じられるようになり、1843年に結成された「ザ・ヴァージニア・ミンストレルズ」がヒットし、これがミンストレル・ショーの始まりとなったといわれています。
フィドル(バイオリン)、バンジョー、タンバリンといった形でヨーロッパ音楽からはみ出した肉体的なリズム感が人気となり、その後、司会とジョークを放つ「エンドマン」という役がついたり、二場面編成になるなどの発展をしていきました。「オリオ」と呼ばれる第二場において、動物芸やマジック、寸劇などが演じられ、総合的なエンターテイメントショーとして発展していきました。ミンストレル・ショーはオペラをしのぐ人気を博し、アメリカ音楽史の非常に重要な位置を占めることになります。
ミンストレル・ショーは、雑多な出身地や困難な生活を乗り越え、均一化しつつ、一方で特徴や習慣の違いを演劇に取り込み、それを利用して仕掛けを生みました。アフリカンアメリカンだけでなく、アイルランド人、ユダヤ人、ドイツ人など、他の人種を示すキャラクターも黒塗りで演じられました。つまり、単なる黒人蔑視だけではなく、白人たちが共通のアイデンティティを育むツールとして、「黒塗り」が利用されたのです。
◉1850年代~70年代 ミンストレルショー最盛期
歌、ダンス、ジョーク、曲芸などで構成されるミンストレルショーは、1850年代~70年代にかけて最盛期を迎えます。ショーは構成が定型化していき、南北戦争(1861~1865)のころには三部構成が普通になります。
このミンストレルショーに多くのオリジナル曲を書き、ヒットメーカーとなったのが、スティーヴン・フォスター(1826~1864)です。「草競馬」「おおスザンナ」「故郷の人々」「懐かしのケンタッキーの我が家」など、非常にたくさんの楽曲が残され、「アメリカ音楽の父」と呼ばれています。
フォスターの他にはヘンリー・クレイ・ワーク(1832~1884)の作品も有名になりました。(大きな古時計、ジョージア行進曲など)
もともとフォスターらがミンストレルズのために生んだ、黒人の憂いや苦さも含んだこれらの歌は、南北戦争頃に歌だけが独立して広まるにつれ、歌詞が変えられてアフリカン・アメリカン色が無くなることで、白人中心の郷愁的な国民唱歌、アメリカ民謡へと吸収されていきました。中流階級の自宅の居間で口ずさまれるような家庭向きの歌として、「パーラー・ソング」とも呼ばれました。メロディーは、イングランド・スコットランド民謡からの影響も指摘されています。
同時期、アメリカでは1863年から大陸横断鉄道の建設が始まりました。建設に携わったアイルランド系の工夫達によって歌われ始めた労働歌「I've Been Working on the Railroad(線路は続くよどこまでも)」もまた、重要なアメリカ民謡の1つとして残りました。
ところで、ミンストレルショーの中では、景品のケーキを目指して競争させられる黒人たちのようすを茶化した「ケークウォーク」というダンスも流行していました。その音楽として、マーチやポルカ風の軽快な2拍子の音楽にイギリス民謡系のフィドル音楽が黒人風のシンコペーションで組み合わさって表現されていました。
この部分が独立してピアノで演奏されることで、ラグタイムの誕生につながっていきます。さらに、ドビュッシーの「ゴリウォーグのケークウォーク」というクラシック作品にまで影響するまでになります。
◉世紀転換期~ ヴォードビルの発達
19世紀末になると、エジソンの白熱電球の発明による舞台照明や舞台装置の変革、街灯の増加とニューヨーク・ブロードウェイの劇場街の発展、鉄道網の発達によるサーカスなどの巡業の大型化が進んでいき、劇場娯楽産業が隆盛を極めます。ミンストレルショーは初期の人気のピークは過ぎ、内容がヴァラエティ化していきました。
ヴォードビルの父と呼ばれるトニー・パスター(1837~1908)が、1881年にニューヨークに開いたフォーティーンス・ストリート劇場で、ミンストレルショーやイギリス由来のヴァラエティーといった従来の野卑なものに対して、本格派の歌手、コメディアン、曲芸師などを使った正統的で洗練されたショーを公演して成功、以後この種のものが主流となり、1890年から20世紀初頭にかけて全盛期を迎えます。1883年、バファロー・ビルが「ワイルド・ウエストショウ」という大型ショーを始め、ベンジャミン・フランクリン・キースが自分の大型ヴァラエティショーに「ヴォードビル」と名付けたのも1883年。これらが世紀末にはミンストレルショーに代わって人気となりました。
ニューヨーク・ブロードウェイの劇場街の発展は、このあとオペレッタの系譜やフランスのレビューという演芸娯楽などとも合体し、ミュージカルの誕生へと繋がっていきます・・・。