これから先の『音楽作品』の価値
音楽の歴史を事細かに調べて突き詰めるうちに、ますます疑問が募っていった。
過去の作品を網羅することに意味があるのか。どこまで網羅するのが正しいのか。作品が残るというのはどういうことなのか。それは価値があることなのか。
クラシック作品は録音メディアが無い時代に譜面や演奏会というシステムで選ばれたものが残された。録音メディアが誕生し、同時にクラシックが前衛化した20世紀後半からは、替わってポピュラーのレコードによる作品が残されたが、21世紀初頭の今それらを網羅する必要がある理由は、時代が近くてまだアーティストもファンも存命だから。直接の記憶があるうちは『名盤』や『ランキング』でノスタルジーが正当化されている。
だが、インターネット時代、ストリーミング時代に一気に横並びになり、文脈が関係なくなった。そしてもう少ししたら、20世紀後半のリアルタイムにポピュラー音楽を支えていた層も消えていく。
そうなると、作品の価値の意味が今評価されている意味と全く変わってくるのではないか。
結局、いま現在『作品』に権力性を付与してるのって、ロック好きなオジサン・オバサンのノスタルジーのためなのが大きい気がしてきていて、もう少ししたら、20世紀後半の数々の名曲や名盤とされているものの価値が全く無くなっていくことさえありうる。
そもそも、ここから先は『作品』は未来に残りにくくなってくるかもしれない。極端に分けると、19世紀の『クラシック(狭義)』とも、20世紀の『ポピュラー(狭義)』とも違う、作品を価値としない新しい枠組みが音楽の主流になってくるかもしれない。というか、ラップ文化やDJ文化がその兆しな気もする。作品よりも現象、パフォーマンス、場みたいな性格が強いというか。そういう意味ではジャズも即興演奏文化として生き残ってる。TikTokとかも「今この瞬間」のものであって、プラットフォームは残ってもコンテンツそのものは未来にあまり残らない。
そんな時代にあって、19世紀や20世紀の『作品』にどれだけの価値が残るのだろうか。名曲、名盤という意味は何なのだろうか。我々や未来の人間が、過去の作品を知る必要はどのくらいあるのだろうか。
そもそも長い長い人類史の中で、音楽はその場限りの現象であり、作品というものは残されていなかった。作品という概念は「譜面」や「録音」などの記録メディア=特殊な権力によって出現したもので、現在残されているのは、人類の数ある音楽のうちのごく一部だ。
ここから先、音楽が「現象」「場」というものに回帰していくのは、もともとの状態に戻るということな気もする。
それでもなお、ここから先、歴史を紡いで書き残されていくとするならば、名盤や名作ではなく『名パフォーマンス』みたいな現象の記録になってくるのかもしれない。『この年は誰々がどの層に感動を与えた。』『この年は誰々がどの層にこのようなブームを仕掛けた。』みたいな。
そして、現象の記録は残っても、その作品自体をもっと未来の人々が鑑賞したり受容したりする必要は無くなっているのかもしれない。
※追記:20世紀後半はすごかった、21世紀はそれが危機だ、のように憂いてるわけではないです。音楽というものが人類から消えることはありません。「場」としての音楽実践、感動、それは素晴らしいことだと思いますし、「音楽を楽しむ」ということが「クラシック」や「ロック」という特定のジャンルの権力から解放されたほうが良いとさえ思うほどです。
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