宇宙には何らかの普遍的な意思体があって、今私のものとしている意志は迷妄であり、普遍的意志体の死後的な世界、もしくは見ている夢こそが、私とされるものではないか。そんな風に感じることもある。いずれにせよ私だという信念は、私の死によって霧散するが、それは目覚めや蘇生なのかもしれない。
何がマズイってさ、終電のリミットあるならそれまでに終わらそうって努力が出来ると思うんだけど。電車なくなったら会社の車で帰ってもギリ許されるのが、気の緩みを生むんだなあ。車って神だよなあ。はやく領収書と請求書と報告書とあとなんだか覚えてすらいないけど作らなきゃいけない。。。むーりー
自ら崇めるものによって侵され、 認めるものによって貶され、 讃えるものによって蔑まれ、 支えるものによって潰される。 そのまた逆も然り。 それが社会であり人間。 すべては跳ね返り、均衡する。 広く見れば常に収支は±0 0の中の無限の中の有限な0なる愛 軽薄な深淵の重み
自我が分別をした結果、客観視を得て宇宙から特異点として孤立した今世こそ、死後の世界なのではないかと思うときがある。自我が霧散して、我と宇宙の境界線が消滅したとき、私は還り真の生に立ち返るのではないのだろうか。
いつ死が訪れるか分からない以上、地上には無念の墓標が乱立している。いや、瞬く間に訪れた召命に、自分の死を自覚できない者も多かっただろう。いかに悔しかろうが、あるがままの宇宙は全てを呑み込みうねるだけだ。自我が霧散して分別もできなくなれば、無念も散じるのがせめてもの救いだろうか。