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【詩】刹那の郷愁

私のことを甘く誘う

二度と還らぬ日々。




それは慈しみが宿るところ

どこまでも沈み込んでいけそうな

柔らかき彼の人の胸の中。


原色で彩色したような

夏の郷里の山。

幼き日の私は

生い茂る草木の迷い路を

いつまでも楽しく彷徨い歩く。


寄せては返す波の音。

幾たびも幾たびも

海が砂を引き摺り込む。

なんと単調で軽やかな音を立てるのか。

なんと心地よい唄を奏でるのか。


古く揺るぎのない屋敷

縁側と裏庭の引き戸を開け放つ。

一陣の涼風が座敷を通り

うだるような暑さを運んでいく。



落ちる夕日。

黄金に輝く西空。

鼻をくすぐる夕餉の匂い。

なにげない話が交わされる。


ちょっと怖い父親。

和やかに微笑む母親。

戯れあう兄弟。

親しい思いが口からこぼれ

夕飯の席で調和する。


団欒の巣は暗闇に包まれ

家族が安らぐ部屋だけが

白い蛍光灯の光に包まれる。



なんでもないようなことが

いたわりをもって話される。

落ち込むような話が

なぐさめをもって迎えられる。


やがて眠りの精霊が

大切な人たちの間を飛び回り

ひとときのお別れを

優しい言葉で告げながら

寝床に潜っていく。


そしてずっと

同じ平和が続いていくはずだった。



いつから私は

平和の道から逸脱しはじめたのだろう。

楽園の思い出が

記憶の底に沈んだのはいつなのだろう。



二度と還らぬ日々よ。

おまえはたしかに在った。

そしてやがては霧散する。



どうかその時までは

朽ちていく姿で

私の心にいておくれ。

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