見出し画像

7月22日 

「あなたこの人生何度目?私は初めてだけど」
中学生だったかもしれない。気づいたら偉そうに言ってた。
目を白黒させる母。口をついて出たのが自分の本心なのかどうか、前頭葉で判別しない曖昧な感覚なままそれは私の口をついて出ていた。

あの時の感覚、今もまざまざと思い出せる。自分に自分が知らない事実を突きつけていた。ああ、そうなんだと静かな納得が降りてきていた。

ああ、だからこの人は決めつけた言い方をするのか。
ああ、だから私はこの人が当たり前のように言うことが一つも理解できないし、しっくりもこないのか。

一生懸命なのはわかりますよ。でも根本というかそんなふうに切れる理由をちゃんと説明してもらわないと、こっちはしっくりこないから理解できなんだけどなぁ。当たり障りなく言われた通りに振る舞うことはできるけど、あなたの求めるのはそれじゃないでしょ?

母は『一を聞いて十を知る』が好きだった。それは根本を把握することでちゃんと理にかなっている。幼いときからそれを仕込まれてきたから中学生になったその頃には洞察力は人一倍あった。しかし中学生になると、女子としてのいろんな仕事が待っていた。母はもう子供として放っておいてはくれなかったし、洗濯物を洗濯機に入れるときの作法とか、洗い物の作法とか、人に物を譲るときの常識とか、いろんなことにダメ出ししてきた。まだ勉強が主体の中学生の私にはどうでもよいことを細々直してくるから辟易としてしまった。

そんなときふと口をついて出たのだった。
まったく何の意図も、意思もない。「ナチュラルに私は知らないよそんなこと、勘弁してよ。」あるいは「全く初耳なことばっかりでさ、どっから推測したらいいのよ」そうほんとうは言いたかったのかもしれない。
屈折しているなぁ。自分でも思う。でも成功だった。母は目をぐるぐるまわし、怒った母と叱られる娘の図式から感情に距離感のある二人の女にシフトし、母は少し礼儀正しくなった。

それ以来、自分はこの人生初めてなんだと、私の中では既成事実となりもう生まれ変わることない、生まれ変わらないから納得するように生きるという決心に変わった。だがそれでも実行は難しくて、そもそも人はできないことがあまりに多すぎて一回の人生で満足いくようなんてできるはずがない。気づけば手当たり次第に首を突っ込む人生。でもあの時の白目を剥いた母の顔とすんなり出てきた自分の爽快な妄言の記憶で、いつもリセットさせられる。

セリーヌ・ディオンの映画の二度見たあと放っておいたら次のおすすめの中国映画が始まった。気づいたら最後まで見ていた。そして滂沱の涙。大好きな母親を喜ぼせたいと思い続けた不出来な娘が母の若い頃にタイムスリップするというありきたりなストリーなんだけど、ちょっとした仕掛けがあった。それが私自身の母との会話を蘇らせた。もう生まれ変わらないと宣言した私だったが、あの時なんと母は言ったかな。何巡目の人生なのか、わからなかったけれどあながち考えたことがない様子でもなかった。それってもしかして、母はまた生まれ変わってくるってこと? エンドロールがおわるより前に、十年、いや十三、四年後また会えるって気がした。声がした。自分の自覚しない自分が背中を押す。
そういえば、ソウルメイトだったのよあなたは、という妄言にもただ頷いていたっけ。

『こんにちは、私のお母さん』(中国2022年の作品)

これを見て、ほんとうに会える気がしてきた。きっと母とわかるという確信がある。

『私の記憶にある母は一人の中年女性だった。
だからいつも忘れてしまう。母にも少女の時代があったことを』

ほっこりしたい方におすすめです。

いいなと思ったら応援しよう!