ピーチ子

30代会社員。夫と娘と3人暮らし。本人は色々とポンコツだが、周りに支えられて淡々と毎日を過ごせています。

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最近の記事

三島由紀夫『不道徳教育講座』に学ぶ本当のモテ方

晩秋の一日、三島由紀夫の『不道徳教育講座』を手に取り、その逆説的な題名に目を奪われた。「不道徳」とうたいながらも、実は読者の道徳観を揺さぶり、深い思索を促す仕掛けが随所に凝らされているのである。 特に印象に残ったのは「モテるとは何ぞ」という短編である。三島によれば、世間でいう「モテる」とは、ただ周囲からチヤホヤされるだけに過ぎない。 多くの人が少しの称賛で舞い上がりがちだが、三島はそれを「一体それが何だ」と一蹴する。 チヤホヤとは、さながら「ウナギ屋の前でウナギの焼けた匂い

    • 「話さない」ことの力 ー最高の人間関係を作る逆説のルール—

      夫との会話で、最も考えさせられるのは、「何を話すか」ではなく、「何を話さないでおくか」という選択である。 人はいつも「自分をどう伝えるか」や「良いコミュニケーションの形」に心を砕いているけれど、「沈黙を守ること」についてはほとんど語られることがない。 沈黙の意味を語ろうとすること自体が、その本質的な価値を損なう矛盾を含んでいるとはいえ、この​​​​​​​​アンバランスさが、現代の関係性に隠れた静かな問題なのかもしれない。 すべてを打ち明け合う関係は理想的に見える。でも実は

      • 恋愛の駆け引きとプレゼントの魔力—愛なのか、秘められた計算なのか—

        知人がマッチングアプリで二人の男性から同時にアプローチされていると聞いたとき、まるでドラマのような展開に思わず笑ってしまった。 「へぇー、モテモテじゃないですか!」なんて軽くからかいつつ、心の奥ではちょっと羨ましい気持ちも芽生えていた。 話を聞くと、一人は社長で、いきなりブランド物の財布をプレゼントしてきたという。 もう一人は証券アナリストで、「チケットは手配するから、一緒に旅行に行こう」なんて誘ってくるらしい。 「どっちがいいかなぁ?」と笑顔で語る彼女を見ていると、「な

        • 「見知らぬ人との境界線」—親切と警戒のはざまで—

          私は数か月に一度、知り合いでない人に対する親切心と警戒心のバランスに悩む場面に遭遇する。 先日の夕方も、そのような出来事が起きた。 退社後、最寄り駅への帰路で、向かいから歩いてきた全身黒ずくめの20代と思われる男性に「すみません」と声をかけられた。 道をふさぐように立ち塞がられ、やむを得ず足を止めた。本来なら避けたかったのだが、私は反射神経が鈍く、すれ違い様のタイミングを計ることが苦手だ。今回も咄嗟の判断ができず、立ち止まらざるを得なかった。 すると、目前に立った黒ずく

          芥川龍之介『秋』—本日お月見しながら読みたい本—

          十五夜から約1か月後に巡ってくる十三夜は、十五夜についで美しい月と言われている。 今年の十三夜は、本日10月15日の火曜日らしい。 秋の夜長に、「お月見をしながら読みたい本」として、芥川龍之介の『秋』という短編をおすすめしたい。 『秋』は、幼馴染の従兄をめぐる姉妹の心理的葛藤を描写した作品である。 このように言うと、メロドラマ的な小説なのかと思われるかもしれない。 しかし、そこは芥川龍之介の細部まで美しさにこだわった文体によって、優雅な劇のような雰囲気に仕上げられてい

          芥川龍之介『秋』—本日お月見しながら読みたい本—

          読書に夢中になりすぎて、後ろの席の同級生に椅子を蹴られていた話

          9歳になり、ある程度漢字が読めるようになった頃、私は本を読むようになった。 そして、自分を取り巻く世界、世の中というものは、不条理であると気づいた。 本に書かれている物語は、整合性があって、いつ読んでもその内容は変わらないのに対し、現実は違ったからである。 親も友達も、友達の親も先生も親戚も理不尽なことを平気で言い、その時の気分によって言うことも変わることがあった。 それに気づいたときは、まるで目の前がずっと白いもやで覆われていたのに、突然視界がクリアになったような感

          読書に夢中になりすぎて、後ろの席の同級生に椅子を蹴られていた話

          おやつの攻防戦:3歳娘と私の愛おしい日常

          私は今、3歳の娘と暮らしている。 娘は食べることが大好きだ。 母親としては非常に助かっているが、彼女の食べることへの凄まじい意欲には、同じく食い意地の張っている私でさえ目を見張るほどである。 娘に3時のおやつとして子供用のお菓子をあげると、自分の席にちょこんと座って食べ始める。 しかし、私が自分もおやつを食べようと袋を開けると、その音を聞きつけて、娘は毎回「ガタッ」と席を急いで立ち、走って私のところにやってくる。 そして、「ママ〜」と抱きついて、「何食べてるの?それは

          おやつの攻防戦:3歳娘と私の愛おしい日常

          運動音痴の私が授業で下手な人の見本にされて得たもの

          私は運動神経が悪い。 足が遅いのはもちろん、ボールを投げればほとんど真下に叩きつけてしまうし、 ダンスを踊れば振り付けがワンテンポ遅れ、隣で踊る人とぶつかってしまう。 それでも、どんなに運動神経が悪くても、子どもの頃に学校に通っていれば、体育の授業は避けられなかった。 今はどうなのか知らないが、私が学校に通っていた20年前は、苦手だからやらないという選択肢は一般的に認められていなかったからだ。 体育の授業は、クラスメイトや学年で合同で行うことが多かった。 つまり、普

          運動音痴の私が授業で下手な人の見本にされて得たもの

          会話の主役を譲れば、面白い話を語り合える

          人の話を聞いて、「へぇ、面白い」と思う瞬間が好きだ。 noteなどで、面白い文章と出会えたときもスキだ。 しかし、「面白い」と一言でいっても、その感覚は様々である。 例えば、私は3歳になる娘の「プゥーー」というお尻からの鳴き声を聞いたときは、愉快で面白いと感じる。 一方で、人の話を聞いて、「へぇ、面白い」と思うときは、意外だったり、知らない話であったりと興味をそそられて面白いと思う。 また、面白いの種類が異なると、笑い方も変わる。 馬鹿らしくて面白いと感じたときは

          会話の主役を譲れば、面白い話を語り合える

          女は愛嬌、だがもうくたびれちゃったんですよ

          人前に出るときは笑顔を作る。 特に、芸人など舞台にあがる人は、観客に向けて笑顔を作ることを意識するだろう。 また観客も面白がらせてくれるであろう相手に笑いかけられることを期待している。 漫談の挨拶を聞いて、私もフッと笑ってしまった。 初代柳家三亀松師匠、ぞくっとするほど話す間と声が魅力的だったからである。 私は落語に詳しいわけではない。たまたま都々逸っていいなと思って、聞いているうちに、初代柳家三亀松師匠に辿り着いただけである。 しかし、そのようなにわかでも、音源で

          女は愛嬌、だがもうくたびれちゃったんですよ

          「恋に落ちるのは重力のせいではない。」とアインシュタインも言っている

          「あなたは重力を責められない、恋に落ちることで。」とアインシュタインもいうように、何かや誰かのせいで恋に落ちるわけではない気がしている。 個人的な感覚だが、恋は歩いていたら偶然穴に落ちるようなものではなく、相手が掘った落とし穴があると気付きながら、その上を歩いて、当然落ちるようなものだと思っている。 つまり、馬鹿馬鹿しい遊びみたいなものである。 しかし、私は何の役にも立たないことはしない人より、本気で泥団子をピカピカにすることに夢中になれる人のほうが暇つぶしは上手いと思う

          「恋に落ちるのは重力のせいではない。」とアインシュタインも言っている

          気持ちの問題で上手く伝えられないときの考え方

          伝えたいことを上手く話せないときがある。 大きく分けるなら、二つの要因が、私の中ではある。 単純に伝え方が下手な場合と心理的な要因で上手く話せない場合である。 私は営業の仕事をしているので、新しい商品の説明をするときに、伝え方が今一だったと感じるときがある。 伝え方の問題の場合、量をこなして、その都度修正していくと改善されることが多い。 一方で、心理的な要因が問題である場合、改善するにはきっかけが必要であったり、あるいは改善できなかったりする。 また心理的な要因が

          気持ちの問題で上手く伝えられないときの考え方

          あなたと私がさびしいときに

          子どもの頃からとても好きだと思う詩である。 私のさびしさをありのまま受け止めてくれる人は存在しない。 しかし、そのような人がいないというさびしさも含めて私のさびしさをありのまま見てくれる存在はいる。 なんて温かくて、かなしくて、美しい眼差しを持った人の言葉なのだろうと、彼女より歳をとった今、より一層感じる。 私たちは、「さびしいね。」とそばで言い合えるのに、お互いのさびしさをありのまま見ようと努めると、私のさびしさとあなたのさびしさは違うものだと気づいてしまう。 だか

          あなたと私がさびしいときに

          自分を知るために他者と出会うのはいけないことなのか

          私の向かいに座ってにこやかな表情で会話していた彼が、少し緊張した面持ちで、私に話し始めた言葉を覚えている。 「私が人と話したいと思うのは、相手を通じて、自分という人間がどのような人間なのかを知りたいからに過ぎないのかもしれません。」 そのとき、彼の膝に置かれた手に目をやると微かに震えていた。 私と彼は、ニ、三回顔を合わせて、短い会話をした程度の知り合いだった。 だからこそ、彼は私に胸の内を話したのだと思う。 関係性ができてしまった相手には、相手の目に良く映りたいとい

          自分を知るために他者と出会うのはいけないことなのか

          祈るように、本を開くときがある。

          私は、神さまと呼ばれる大いなる存在に祈る行為と、本の著者と対話する行為は似通っているところがあると思っている。 現実には神さまも本の著者も私の目の前にはいないのだけれども、私が対話を求めることによって、時空を超えて私の心に立ち現れる存在になるからである。 目の前の現実が自分の手に余る重さで、抱えきれないと思うとき、 愛する人が苦しむ姿を見たとき、 私自身や親しい人たちが、人生の岐路に立っているのに無力感に襲われたとき、 私はかなしみを抱え込む量が増えるたびに、祈りに

          祈るように、本を開くときがある。

          まわり道ができない私たちは雑談を楽しめない②

          今回の記事では、私たちが雑談を楽しめない状態を変えるにはどうすればよいのかを考えたい。 前回の記事は、コロナ禍以降、雑談を楽しめない人が増えている原因やその背景について考えてみた。 記事の中で、対人営業の仕事をしている私の体感での話だが、雑談力には世代間で差があり、20代〜40代前半の方は、雑談をふると身を固くする方が多いという話をした。 このように、若い世代のほうが、純粋に雑談を楽しめない理由として、常日頃からコスパを重視し、効率が悪いものを極力省こうとした結果、まわ

          まわり道ができない私たちは雑談を楽しめない②