自分を知るために他者と出会うのはいけないことなのか
私の向かいに座ってにこやかな表情で会話していた彼が、少し緊張した面持ちで、私に話し始めた言葉を覚えている。
「私が人と話したいと思うのは、相手を通じて、自分という人間がどのような人間なのかを知りたいからに過ぎないのかもしれません。」
そのとき、彼の膝に置かれた手に目をやると微かに震えていた。
私と彼は、ニ、三回顔を合わせて、短い会話をした程度の知り合いだった。
だからこそ、彼は私に胸の内を話したのだと思う。
関係性ができてしまった相手には、相手の目に良く映りたいという欲が出てきて、本音は言い辛くなるからである。
一般的に、他者と会話をするというのは、相手と通じ合うことを目的にするものである。
彼の言う「相手との会話を通じて自分のことを知りたい」いうのは一方通行になる。
そのため会話をする目的にそぐわないではないかという意見もあるだろう。
私も会話はコミュニケーションを図るものだと考えている。
しかし、私は「相手は鏡で、自分の顔を見てみたくて人と会って話したいと思うのかもしれませんね。」と彼に同意する返事をした。
なぜなら、彼に共感したからである。
私たちは鏡がなければ、自分の顔を見れないように、他者の存在がなければ、自分の全体像を見ることができない。
しかし、相手を鏡代わりに利用しているのは気が引けるという彼の繊細さが、私には好ましく思えた。
私がよく遭遇する人は、「自分が他者の目にどのように映っているのかを知りたい。」または「自分は〇〇な人間であるから、あなたもわたしのことを〇〇な人というふうに見てほしい。」などと言ってくる。
そのようなとき、私は何だか厚かましいことを言ってくるなぁと感じるのだが、たぶん彼らには悪気はない。
だから、「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」なんて大人気ないことは言わない。
誰しも自分をどのように表現するのかを考えることは必要だろうと思うからである。
そのために私が彼らを表現するサンプルの一つになれるのなら、人の役に立てたというべきだろう。
ただ、自分でサンプルを集めようとしなかったり、根拠も提示されないものを信じるように強制されたりするのは好きではない。
一方で、私は相手を鏡のように利用して、鏡に映る自分の顔を見て、自分の認識する顔とどの程度差異があるのかを知るのは重要であると思うし、自分を表現するためのサンプルを集めていくのも悪いことだとは思わない。
それがたとえ人を利用したり、サンプルという材料扱いをすることになったりしても、お互いに利用しないよりはマシだと思っている。
つまり、私は厚かましい彼らと同じく図々しい人間の部類なのだが、彼のように謙虚な人がいるというのは嬉しいことだと思った。
だから、「相手に興味を持ちましょう。」「相互にコミュニケーションを取りましょう。」などという上から目線のうわべの言葉は話したくなかった。
私の返事を聞いた彼は嬉しそうに微笑んだ。
私は久しぶりに他人と血の通った言葉を交わせた気がした。
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