運動音痴の私が授業で下手な人の見本にされて得たもの
私は運動神経が悪い。
足が遅いのはもちろん、ボールを投げればほとんど真下に叩きつけてしまうし、
ダンスを踊れば振り付けがワンテンポ遅れ、隣で踊る人とぶつかってしまう。
それでも、どんなに運動神経が悪くても、子どもの頃に学校に通っていれば、体育の授業は避けられなかった。
今はどうなのか知らないが、私が学校に通っていた20年前は、苦手だからやらないという選択肢は一般的に認められていなかったからだ。
体育の授業は、クラスメイトや学年で合同で行うことが多かった。
つまり、普段一緒に過ごしている人たちの前で、自分の運動神経の悪さを露呈させることになるのだ。
すると、やたら声が大きいのだけが取り柄みたいな男子中学生から「運動音痴」とからかわれたり、
「注目を集めるためにわざとやってるんじゃないの」と少し悪ぶった女子中学生に冷笑されたりすることもあった。
そんなときは、まるで太宰治が書いた小説の主人公のように「恥の多い生涯を送って来ました」と日記にでも書かなくてはやってられない気分になった。
太宰治の『人間失格』の冒頭の一文として有名であるが、その一文の後には、「自分には、人間の生活というものが、見当がつかない」と続く。
私の場合、「身体の動かし方というものが、見当がつかない」のである。
そのため、学生時代には何度も恥をかいてきたが、その極めつけが、大学のテニスの授業での出来事であった。
テニスの授業の初日、私があまりにもテニスが下手すぎたのか、悪目立ちしてしまったようで、教授に「下手な人の見本」としてラケットを振るように指名されてしまった。
おそらく教授は私がふざけていると思ったのだろう。それでも、未だに「上手い人の手本ならわかるが、下手な人の見本を授業で見せる意味はないのではないか」と思っている。
当時の私は女子校であった高校を卒業し、共学の大学に入学したばかりの18歳の乙女だった。同じ年頃の男女が見ている中で、自分の運動神経の悪さを披露することは、恥辱そのものであった。
しかし、私はその辱めに耐え、皆の前でボールをあさっての方向に投げ、ラケットを力強く振った。単位が欲しかったからである。
ちなみに、その場に今の夫もいて、「世の中にはこんな気の毒な人もいるのだ」と私を憐れに思ったのが、彼の私に対する第一印象だったと聞いている。
もし私が繊細な性格であったなら、その初日以来、二度と授業に出なかったかもしれない。夫にも「自分だったら授業に出ない」と言われたこともある。
しかし、私は半年間、一度も授業を休まずに出席した。初日に教授が「出席すれば単位は与える」と言っていたからである。
それに私は恥辱を受けたことを忘れてはいなかった。
「教授!こんなにテニスが下手でも出席すれば単位を与えるんですよね?男に二言はありませんよね!」と圧をかける気持ちで、授業のたびに教授に話しかけ、出席しているアピールを繰り返した。
そうすると、教授も「頑張っているね」と声をかけてくださるようになり、当たりが柔らかくなった。そこで、私は「毎回出席してもなかなか上手にならないものですね」と笑いながら嫌味を言って鬱憤を晴らした。
また、大学という場所は、思ったことを無遠慮に口にする男子もいなければ、変な注目の集め方をしてもモテないと理解している女子たちだったので、そこそこ楽しく授業を受けられた。テニスは一向に上達しなかったが。
授業初日は最悪であったが、一緒に授業を受けた仲間と親しくなり、食事にも何回か出かけられて楽しかったし、夫とも出会えたので、結果的には授業を受けて良かった。
ちなみに、単位も無事に取得できた。しかもA判定だったので、ガッツポーズをした。
半年間続けて、一度もサーブを成功できなかった私にA判定を出した教授は、きっと私の根性を見てくれたのではないかと思っている。
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