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祈るように、本を開くときがある。

私は、神さまと呼ばれる大いなる存在に祈る行為と、本の著者と対話する行為は似通っているところがあると思っている。

現実には神さまも本の著者も私の目の前にはいないのだけれども、私が対話を求めることによって、時空を超えて私の心に立ち現れる存在になるからである。

目の前の現実が自分の手に余る重さで、抱えきれないと思うとき、

愛する人が苦しむ姿を見たとき、

私自身や親しい人たちが、人生の岐路に立っているのに無力感に襲われたとき、

私はかなしみを抱え込む量が増えるたびに、祈りに誘われる気持ちになった。

そのようなとき、特定の宗教を信仰している人であれば、聖典と呼ばれる書物を読むのかもしれないが、私の場合、その時々の心情にあった本を開き、ページをめくる手を度々とめて著者に話しかけることで、幾度となく救われてきた。

かなしみや苦しみについては、その度合いについて体験談では語られることが多いが、私は他人とその度合いを比較することはさほど重要ではないと感じている。

なぜなら、他人を襲ったかなしみや苦しみが、同時期に同じ状況で自分に起きるものではないし、受け止める容量も他人と自分では異なるからである。

一方でどのようにかなしみや苦しみを受け止めるのかという態度を自ら決めておくことは大事であると考える。

経験上での話でしかないが、幼い頃〜成人してからと20年以上かけて、私の父、母、双子の片割れが順に心を病んでいったとき、私が冷静だったのは、受け止め方を決めていたからである。

もちろん、何も考えず、自分の愛する人が海で溺れていたら、とっさに飛び込める人のことは人間として尊敬する。

しかし、自分自身が同じ状況に立たされた時、それほど勇敢な行動が取れるのかは考えておくべきである。

これも私の身の上でのことだが、土壇場で思考停止して立ち尽くした父親が、大切な人を溺死させてしまったことを30年以上苦しむ姿を見て思ったことである。

父は自分が弱い人間であるのは知っていたと思う。
しかし、若かったからか、自分が思う以上に己が意気地なしであったことに気づかなかった。
そして、大切な人を失うと、もう意気地なしであった自分を許せなくなるというのも知らなかった。

知らなかったというのは罪なのかは分からないが、私の父は、自らを罰していくのが人生のルーティンになっていった。

それを側から見ていると、あわれだと思ったが、自分を罰することが長年のルーティン化していくと、今現在を生きることをかまける理由になり得るのだとも感じた。

たぶん人は自分を苦しめようとすると、同時に楽をしたくなるのと同じことだと思う。

しかし、私は楽になろうとするのは、罪深いではないかと思うのである。

自分で罰しているうちに、苦しみを感じるのではなく、痛みを感じるのに変わってきているからである。

痛みを免罪符に、苦しみから逃れては、自分の弱さを憎み続けるしかないではないか。

ただ私は父にあきれながらも愛している。傷だらけの人から、絆創膏だと信じているものを奪おうとしたことを今は悪かったと感じている。

だから、私は暗くて冷たい海で溺れている父から手を放し、その海に一緒には飛び込まないと決めている。

きっと彼が本当に溺れて浮かび上がれなくなったとき、今度海で溺れるようになるのは自分になるかもしれないと思いながら。

「それだって、一つの勇気のかたちではないか。」

私は神さまに問いかけている。

ただそのとき、私は臆病者なので、開いている本を強く握りしめないと落ち着かないのである。




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