芥川龍之介『秋』—本日お月見しながら読みたい本—
十五夜から約1か月後に巡ってくる十三夜は、十五夜についで美しい月と言われている。
今年の十三夜は、本日10月15日の火曜日らしい。
秋の夜長に、「お月見をしながら読みたい本」として、芥川龍之介の『秋』という短編をおすすめしたい。
『秋』は、幼馴染の従兄をめぐる姉妹の心理的葛藤を描写した作品である。
このように言うと、メロドラマ的な小説なのかと思われるかもしれない。
しかし、そこは芥川龍之介の細部まで美しさにこだわった文体によって、優雅な劇のような雰囲気に仕上げられている。
そのため、通俗的な雰囲気を好まない読者でも楽しめる作品だと思う。
『秋』をお月見しながら読むのをおすすめする理由は、特に緊張感が漂いながらも美しいと感じられる印象的な場面が、十三夜の美しい月の出ているときの出来事として語られるからである。
その場面自体は淡々と描写されているが、読者はヒヤヒヤするような緊張感を感じるだろう。
なぜなら、かつては「いつか結婚するだろう」と噂されていた主人公の姉と、幼馴染の従兄が、それぞれ別の相手と結婚した後、久しぶりに再会した日の夜、二人で外に出て美しい月を眺めるという場面だからである。
しかもその時、幼馴染の従兄は、主人公の愛する妹の夫となっているのだが、主人公は今でも「従兄は自分を想っているのではないか」と考えているのだ。
また作中では、主人公がその予感が当たっているのかを確かめる機会を、かすかに待っていることも描かれている。
そこで、もしお互いの気持ちを確かめ合うような会話がなされれば、極めて気まずい状況になりそうだと、読者は予想する。
二人で月を眺めながめているとき、従兄は「十三夜かな」と呟く。
それは「月が綺麗ですね。」のような愛の告白の意味が込められた言葉なのかと、私はドキドキしながらその場面を読んだ。
また二人が月を眺めた後の主人公の台詞や妹の様子の描写に、三角関係のヒリヒリした緊迫感を感じられる。読みながら、思わず「ひぇ…」と変な声を漏らしたほどだ。
このように、心理描写にドキドキする場面があるのも小説として面白いし、『秋』という題名通り、秋風が吹いて、少し冷え冷えした空気を感じたときのような、さみしさや切なさが読後感に味わえるのも魅力的な小説だと思う。
この作品が好きだという人はその秋の深まりを感じさせる雰囲気が好きだと思う人も多いのではないだろうかと感じる。
ぜひ十三夜の月を眺めながら、読んでみていただきたい。私も再読するつもりである。
ちなみに、短編なのであっという間に読めるし、青空文庫でも読める。
ここからは、おすすめする理由ではなく、私が『秋』を読んだ感想について書きたい。
まだ読んだことがない方は、読み終わった後に、感想を読んでほしい。
『秋』は、芥川龍之介が初めて現代や日常を題材としながら、近代的な心理小説を試みた作品といわれている。
この短編の試みについて、三島由紀夫は下記のように述べている。
三島由紀夫が「惜しい」と評しているように、私も他の芥川の作品と比べると、完成度に欠けるような、少しいびつな印象を受けた。
しかし、だからこそ「飽きの来ない作品」なのかもしれない。
また芥川は『秋』という題におそらく「飽き」を掛けていると思われる。
それは主人公の信子が、満たされない日常生活での退屈を空想と美しい感傷に浸ることで凌ごうとする場面が度々見られるからである。
ここでその場面を説明するために、『秋』の物語の進行を簡単に述べたい。
『秋』の主人公である信子は、作中でさまざまな期待を抱いている。作家になる夢、美しい姉妹愛、高商出身で上品かつ清潔感のある夫との甘い結婚生活、さらには、かつて周囲に「信子と結婚するのでは」と噂されるほど親しかった幼馴染である従兄が、作家となり、妹と結婚した後も自分に想いを寄せ続けているのではないかという期待である。
しかし、作家になる夢や甘い結婚生活への期待は次第に諦めていくことになるのが現実だった。
信子は主に結婚生活で不幸せを感じたとき、「妹なら一緒に泣いてくれるだろう」と空想し、信子が従兄とは別の相手と結婚した後の従兄の小説の文章から、「寂しそうな捨鉢の調子」が感じられると感傷に浸る。
信子が満たされない生活を幻想で埋め合わせをする中で、東京に出張することになった夫に連れ立って、新婚の妹と従兄の新居に訪れる。
そこで妹が従兄と幸福そうな新婚生活を送っていることに嫉妬し、姉妹の仲に亀裂が入る。
そして「従兄がまだ自分に想いを寄せている」という最後に残った期待を胸に彼を待つが、すれ違い、結局その確信を得られないまま信子は大阪に帰る。信子は自身の期待が叶わなかったことに深い寂しさを感じる。
信子の物語は、「才媛の女流作家として華やかな活躍を期待されるが実現できず、淡い期待さえ諦めなければならない状況下で、また寂しい松林で幸福を感じられる何かを待つことになるのだろう」と読者に予感させ、身体の芯から冷えるような寂寥感に包まれながら終幕を迎える。
私は『秋』を読み終わった後、『侏儒の言葉』の一節を思い出した。
現実と夢との不釣り合いから幻影を抱く女という点で、『ボヴァリー夫人』の主人公のエンマと信子は似通っている部分があるように思われる。
芥川は『秋』で「美しい退屈」を書きたかったのではないかと思った。
私も「美しい退屈」には惹かれるところがある。儚い現実を空想で補おうとしても幸福は感じ取れないのに夢を見てしまうというのは、人間のかなしくて美しい習性だと思っているからである。
しかし、信子が作家を目指すような人物であれば、「ひたすら期待して待つだけでなく、もっと自発的に自分の物語を進めるのではないか」という思いが浮かぶ。
芥川は観察眼の鋭い作家だとされているが、信子が作家になりたいと小説を書いている動機などはあまり掘り下げていない。
時代的に、帝大生と文学談義ができるほどの教養があり、自ら小説も書く女性というのは珍しかったであろうし、その女性が自己実現できるかより、帝大生の作家志望の従兄ではなく、高商出身の商事会社に勤める男性を結婚相手に選んだ暮らしはどうだったのかというほうが多くの読者の興味を惹くと思ったのかもしれない。
また芥川自身も女性が作家になるという夢で、自己実現を図るというテーマより、文学に対して教養があり、作家にもなれると言われるほど知的な女性が「美しい退屈」をする物語を書きたかったのではないかと思うのである。
なぜ女学生時代、才媛と言われ、周囲から華々しい将来を予想されていた信子が「美しい退屈」をすることになるのか。
信子は周囲から作家志望の幼馴染である従兄と結婚し、彼女自身も作家として成功するのではと言われながらも、大学卒業後は東京を離れ、大阪に本社を持つ商社に勤める青年と結婚し、郊外の閑静な松林で専業主婦として暮らす道を選んでいる。
その理由として、信子が経済的に困難な母子家庭であったことが挙げられる。
また、妹からの手紙には、妹が従兄に恋をしていたため、信子が身を引いて縁談を受け入れたのではないかという推測が書かれている。
これにより、信子が才媛でありながら、周囲の状況から、自発的には希望を実現できなかったかのように読める。
一方で、信子自身は、「果たして妹の想像通り、全く犠牲的な選択だったのだろうか」と疑念を抱いていると描写される。
それは信子が家族のことを思って、最愛の相手を諦めて別の相手に嫁いだというような美談ではなく、信子は思惑があって、幼馴染の作家志望の従兄と結婚しなかったと芥川は仄めかしているのである。
さらに、信子は妹の空想、つまり自身にとって都合の良い物語に涙を滲ませる浅ましさにも気づき、重苦しい気持ちにもなっている。
そして、その重苦しさから目を逸らすために、信子は感傷に浸ろうとすると描かれる。
その描写自体は非常に美しいが、同時に信子が妹が考えるような自己犠牲の精神から縁談を受け入れたのではなく、計算高さがあったのではないかと示唆している。
信子に泣いて詫びるという手紙をよこした妹と対照的に、作家自身は信子を静かに軽蔑しているように感じるほど、冷たい視線で彼女を見ている感じを受ける。
そのためか、芥川は、自身と同じく作家になった従兄の信子に対する心情は全く描かない。
信子が従兄の心情を推察しようとする場面ばかりで、彼女が妹との新婚生活を送る従兄に「俊さんこそ如何?幸福?」と直接問いかける場面もあるが、その返答も書かれない。読者にとっては、不自然に感じるくらいだ。
この描写の欠落が小説としての面白さを生んでいるが、同時に信子が従兄の気持ちをどれほど都合よく解釈しても、絶対に確信を持たせないという、少し意地の悪い感情が透けて見えるようである。
では、なぜ作家はそこまで信子を軽蔑しているのか?
これは、芥川自身が実生活で何かを経験した結果なのだろうかと勘ぐりたくなる。
芥川自身が才媛の誉が高い女性に自尊心を傷つけられ、失望させられた経験があり、精神的な深傷を負ったことがあったのだろうか?
このような想像を巡らせるのは楽しい。また個人の感想なので、確かめる必要性を感じないので調べていないが、先行研究や年表などを通じて知ることは可能だろう。
信子の思惑は何だったのか?おそらく、彼女は経済的な理由から堅実な結婚相手を選んだのだろう。
既婚者で一児の母である私としては、結婚は生活であり、堅実な相手を選ぶのも納得できる。
しかし、若い文学青年の立場から考えれば、文学談義ができるほどの才媛が、作家志望の男の優れた頭脳や才能ではなく、生活力のある男を選んだことに対して、裏切られたような感情を抱いたのかもしれない。
また、自ら裏切っておきながら、自分に都合の良い物語を空想するために、気持ちを利用しようとする傲慢さに、軽蔑を覚えたとしても不思議ではない。
しかし、小説には憤りだけではなく、切なさも感じられる。
『秋』は、現実的な考えで結婚した女が、結婚生活で多少の不幸を感じるとき、かつて親しく付き合い、文学という共通の話題を語り合った相手を思い出すという話である。
芥川がそのような話を描いたのは、結ばれる相手としては選ばれなくても、せめて忘れずにいて欲しい、願わくば同じように、思い出すことで少し苦しんで欲しいという男心を小説に潜ませたのではないかと思うのである。
私は男心を持ち合わせていないが、若い頃、別れ際に「半年は覚えていて欲しい」と相手に言われたことがある。
薄情と言われたようで、少し腹が立ったが、二、三ヶ月後に彼の友人から電話がかかってきたときには、彼が恐れた通りに私は忘れていた。それを彼の友人に白状したら、彼が気の毒だと言われたことがあった。
そういう薄情者に芥川も現実で遭遇してしまったのかもしれない。
現実の女性は、一般的に、過去を新しい出来事で上塗りしてしまうのが男性より得意である。女性は新しい出来事で上塗りすると、切り捨てた過去には心を留めないというのを、芥川は身をもって知っていたのではないだろうか。
だから信子は夫以外の人付き合いや街に出かける様子などの描写がなく、ずっと郊外の松林にある自宅で過ごす場面しか出てこないのだ。
松林に囲まれた閑静な場所にある住宅で、信子が唯一話す夫は、文学談義に興味がなく、妻の創作活動に嫌味をいう男であるにもかかわらず、信子はさみしいと思うだけで、小説を書くために筆をとることさえ稀になっていく。
また信子は「自ら筆をとって自己実現を図る女」になると周囲からも期待され、自身も期待していたのに、「松林で待つ女」であることにほぼ抵抗もしない。
信子が反抗だと思ってしていることといえば、夫以外の男性からひそかに想われていることに、後ろめたさを感じているのを夫に隠し、あたかも夫だけを愛しているかのように優しく振る舞ったり、結婚式の様子を事細かに覚えていると言ったりして夫を欺く程度なのである。
芥川と同時代を生きた才媛である歌人の柳原白蓮は新聞の連載記事で不幸な結婚生活を嘆く赤裸々なものを告白している。白蓮はその後恋人と駆け落ちして夫に絶縁状を送るような大胆すぎる女性ではあるが、それにしても同時代の才媛であるはずの信子の反抗の仕方は、あまりにも物足りないように感じる。
それがまた哀れではあるのだが、信子には、その程度の抵抗しかさせずに「松林で待つ女」でいてもらわなければならない理由が芥川の中にあったと考えると納得がいくのである。
信子が白蓮のように、「自ら筆をとって自己実現を図る女」であれば、歌人や新聞記者など男性たちと手紙や歌を交わし、仮装恋愛を楽しめたと思うのである。
ただそうすると、過去の恋愛はそれらに上書きされてしまう。上書きされてしまえば、心はもう過去に留まらなくなる。そこに男心は潜むことができなくなる。
だから信子は才媛と言われながらも、「自ら筆をとって自己実現を図る女」ではなく「松林で待つ女」として描かなければならなかったのではないだろうか。
若くて才媛と言われた女性が、理由もなく気が沈むような寂しい午後が訪れるような松林で憂鬱な日常生活を送る。また閑静な松林を離れ、妹夫婦と一緒に会話を楽しみながら食卓を囲んでいるときでさえ、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思い出さずにはいられないなんて気の毒すぎて同情してしまう。
しかし、閑静な松林という退屈でさみしい場所に、才媛と言われた若い女性を閉じ込め、過去を美しく思い出して退屈を凌ぐしかないように仕向けたり、松林から出られたとしても、心はそこから離れられないと書いたりせずにはいられなかった芥川の心情を想うと、やはり切ない気持ちになる。
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