読書に夢中になりすぎて、後ろの席の同級生に椅子を蹴られていた話
9歳になり、ある程度漢字が読めるようになった頃、私は本を読むようになった。
そして、自分を取り巻く世界、世の中というものは、不条理であると気づいた。
本に書かれている物語は、整合性があって、いつ読んでもその内容は変わらないのに対し、現実は違ったからである。
親も友達も、友達の親も先生も親戚も理不尽なことを平気で言い、その時の気分によって言うことも変わることがあった。
それに気づいたときは、まるで目の前がずっと白いもやで覆われていたのに、突然視界がクリアになったような感覚になった。
同時に、「雲の上にいたのに、急に下界に落とされた」というような気分にもなった。
「下界に落とされた」と感じてから、私はめっきり口数が減った。
それまでは、私は早生まれで病弱な体ではあったが、母や先生を辟易させるほどよくしゃべっていた。
先生には話しかけるというよりかは、こちらに色々指示をしてくるので、「なぜそうしないといけないのですか」という質問をしていた。
私は幼少期は入退院を繰り返していたので、たまにしか登園できず、本当に指示がよく分からなかったのだが、先生からすれば面倒だったと思う。よく金切り声をあげていた。しかし、そのヒステリックな先生の姿を皆が面白がるので、ますます言うことを聞く必要性が分からず、「先生って口うるさいのね」と友達と笑っていた。
実際、先生は母に私は嫌な子だと言っていたらしい。(何十年も前の話なので、不適切な表現がまだ許された時代である)
大人になった私も、自分みたいな子どもがいたら、そう感じるだろうと思う。先生も気の毒であった。
先生には好かれなかったが、相手に話しかけるのをためらわない性格だったので友達は多かった。
しかし、本を読むようになると、友達がたくさんいると、読書の時間が減ってしまう。
読書の時間を確保したくなった私は、登下校を共にする近所の子以外には、あまり愛想を振りまかないことにした。
また、人は理不尽な存在なのだと気づいてからは、先生の指示に対して質問もしなくなった。
ただ先生に質問をしなくなっても、私が本に夢中になりすぎて、授業が始まったことに気づかずにいると、先生は真っ赤な顔をして注意してくる。そのときは、やはり先生というのは口やかましい人種なのだと思った。
しかし、私が授業開始に気づかずに本を読み続けることに苛立っていたのは先生だけではなく、優等生で医者の息子であるクラスメイトも同様だったようだ。彼もまた、授業が中断されることに腹を立てていた。
そのため、私が授業が始まっても本を読んでいると、私の後ろの席だった彼は足で私の椅子を蹴って、授業が始まったことを知らせるようになった。
先生の注意する声よりも、彼の蹴りのほうが授業開始の合図としては効果的だった。
しかし、私としては突然椅子を蹴られるので、驚いて振り返って彼の顔を見ると、彼は正当な行為であると言わんばかりの勝ち誇った表情を浮かべていた。
これがどうにも気に食わず、私は「いつか絶対に泣かせてやる」と蹴られるたびに思っていた。
実際、泣かせることには成功した。ある日私は、彼が椅子を蹴っても無視して本を読み続けた。
丁度いい所だったし、先生にも気づかれていなかったので、切りのいい所まで読み終えたかったからである。
すると、彼は激高し、目に涙を浮かべていた。今思えば、彼は父親が医者で、東大生の兄がいるというプレッシャーがあり、苛立っていたのだろう。
しかし当時の私は、彼の心中を慮る余裕はなく、キレながら泣く彼の姿を見て「何でも自分の思い通りになると思うなよ、甘ったれの坊ちゃんが」と思った。
ただし、その毒は心の中だけに留めておいた。喚き散らす彼に、さらに油を注げば、また本を読む時間が減ると思ったからである。
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