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「べらぼう」第9話が涙腺崩壊。愛し合うほど引き裂かれる、叶わぬ恋の行方とは…?蔦重と瀬川の悲恋が切なすぎる!江戸時代の結婚事情も深掘り「フワッと、ふらっと、江戸時代の婚姻離婚の法史学」
NHK大河ドラマ「べらぼう」第9回は、
吉原のまだ駆け出しの出版企画者、主人公・蔦重(横浜流星さん)と、
蔦重の幼馴染で吉原一の花魁、花の井改め瀬川(小芝風花さん)の恋模様が大きく動いた回でした。
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前半では、前回、瀬川の想いに気づかず、
瀬川をがっかりさせた蔦重が、
(前回の内容は以下をご参照ください。「先週特にスキを集めた記事」に選ばれました。ご覧になった皆様、ありがとうございます)
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不器用ながらも瀬川への想いを告白するシーンが展開。
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長年の秘めた想いが通じ、涙を流す瀬川に胸打たれる名場面でした。
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「べらぼう」の主要人物である「瀬川」「松の井」「うつせみ」に赤四角を囲った部分は筆者が画像加工
https://dl.ndl.go.jp/pid/2539485/1/6
しかし、喜びも束の間——物語は一気に暗転します。
吉原の掟では、遊女が身内と恋仲になることは許されません。
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瀬川の雇い主・松葉屋といねは、
蔦重と瀬川を引き離すため、非情な策を講じます。
昼見世の最中、松葉屋は、
「いねは抜きにして、瀬川と三人で話がしたい。」
と蔦重を呼び出します。
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ところが、襖を開けた先には——
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客を取る瀬川の姿が。
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驚愕する蔦重。
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瀬川は彼の視線を感じながら、苦しげな表情を浮かべます。
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そんな二人をよそに、松葉屋は冷淡に言い放ちます。
「気持ちが入っちまうと、聞こえ方が違うか?」
さらに、
「このまま身請けされるまで瀬川は客を取り続けるのか、それとも身請けする前に亡くなるか…」
と、あまりにも残酷な現実を突きつけられます。
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このまま瀬川に客を取り続けさせることはできないと感じた蔦重は足抜け(駆け落ち)を決意しますが、
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先に足抜けを図った貧乏武士の新之助と女郎うつせみの未遂に終わった悲惨な姿を見て、
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蔦重、瀬川ともに足抜けを諦めることに。
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瀬川への想いを、蔦重が告白してくれたこと、
一緒に駆け落ちしようとしてくれたことを、
大切な一生の思い出にすると蔦重に告げ、
瀬川は鳥山検校への身請けを承諾し、
吉原を、そして蔦重のもとを去る決意をします。
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共に想いながらも、結ばれない恋模様を描いた切ない名場面でした。
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(自由恋愛が許される現代の恋愛の心理学については以下をご参照頂ければ幸いです)
江戸時代、想いをお互い寄せながらも、
決して結ばれることはない悲恋を味わったのは、
吉原の遊女だけではなく、武家の人達も同じだったのかもしれません。
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武家の人達も後述するように自由恋愛はできず、
家格にふさわしい者同士や、
家族や主君が認めた相手としか結婚することはできませんでした。
本当に恋心を抱いていた人とは別れ、
その人のことは一生胸に秘め、
家を守るために、結婚した日に初めて会った相手と生涯を共にした…
という武家の人達も多かったことでしょう。
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江戸時代の婚姻・離婚に関する法制度は、
武士階級と、
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庶民(農民・町民)とでは大きく異なっていました。
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以下、それぞれの階層について法史学的に整理します。
武家の婚姻は、家の存続や家格の維持を重視し、
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個人の自由な意思よりも家同士の結びつきが優先されました。
武家の婚姻には、
両家の当主(家を代表する者)から、
主君(将軍、大名等)に、
縁組願という書類を提出して、許可を得る必要がありました。
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結納の授受によって、縁約(婚約)が成立し、夫婦に準ずる関係が発生しました。
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それにより、縁女(女性側婚約者)には貞操義務が生じ、また一方が死亡した場合は、他方は夫婦と同じ服忌の義務が生じました。
そして婚儀(結婚式)を行うことにより、
婚姻が成立し正式な夫婦となります。
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法律上の要件ではないのですが、婚儀には仲人が立ち会うことが通例でした。
庶民(農民・町民)の婚姻は、武士よりも自由度が高く、
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地域の慣習や経済状況に影響を受けました。
庶民では、他領・他支配の者と婚姻する場合を除き、武士階級と異なり、領主や代官の許可は不要でした。
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結納の授受により、許婚(婚約)の関係となり、
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祝言をあげる(結婚式をする)ことにより、正式な夫婦となりました。
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武士階級の場合と同様、法律上の要件ではないのですが仲人が祝言に立ち会うことが通常で、また慣習上、それが重要視されていました。
婚姻後は、寺請状(寺の檀家であることの証明書)を添えて、
妻の人別(戸籍のようなもの)を、
夫の人別帳(戸籍簿のようなもの)へ異動する手続きが必要でしたが、
この手続を踏まなくても夫婦として認められる場合もありました。
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江戸時代は、原則・一夫一妻制でしたが、武士は側室を持つことが公認されていました。
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ただ、夫の親族である正室と異なり、
側室は親族として公認されず、
また側室を正室とすることは1733年に禁止されるに至っています。
江戸時代の半ばまで、庶民で側室を持つ者は、
商人や地主などの富裕層に限られていましたが、
幕末には商店の奉公人等にまで、側室を囲う風潮が広まったといわれています。
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武家の離婚は庶民よりも厳しく、
両家の当主から「双方熟談の上離縁となった。」という内容の届出書が必要でした。
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これは実質的な協議離婚であって、夫からの一方的な離婚は認められませんでした。
庶民の場合は、三行半と呼ばれた、文字通り三行半程度に書かれた離縁状を妻に渡すことが、法律上の離婚要件でした。
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上記三行半には、
「今、離婚となるのは私のわがままではなく、前世からの縁の薄さによるものです。あなた様が今後どなたと再婚されても異議はございません。
以上、この離縁状の通りにございます。よし殿へ」
というような内容が書かれています。
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江戸幕府の基本法典であった公事方御定書によれば、
三行半の授受なく、再婚すると処罰され、
夫は所払い(居住地からの追放)、
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妻は髪を剃られ、親元に返される等の罰を受けました。
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夫の罰のほうが重かったということになります。
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三行半の書式に決まったものはなかったのですが、
離婚文言(「我ら勝手につき、この都度、離縁いたします」等)と、
再婚許可文言が記載されることが通常でした。
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離婚文言は慣用表現を使うだけで、
具体的な離婚理由を書くことはなかったのですが、
それは夫が一方的に妻を追い出したからということではなく、
妻に対する配慮等だからだというのが、
近年の研究による有力説です。
実際、夫が自由に妻を追い出せたわけではなく、
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両家の親類・仲人の間で熟談が行われ、
協議の上で三行半が書かれた、
つまり実質的な協議離婚が通常でしたし、
また妻の方から夫に対して離婚を迫り、
夫がしぶしぶ三行半を書くという例もありました。
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また江戸幕府法では、
夫が無断で妻の衣類や道具類を質入れすると、
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妻の実家から三行半を書くことを夫に対して請求することができましたし、
夫が音信不通となり3年経過したり、
夫が出奔して10ヶ月(後に12ヶ月)経過した場合は、
妻は再婚することができました。
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駆け込み寺(縁切寺)(鎌倉の東慶寺、群馬の満徳寺が幕府に公認された縁切寺でした)に、
逃げ込むことで離婚が成立するケースもありました。
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妻が夫を嫌い、尼寺に駆け込み、
(この場合の尼寺を「駆け込み寺」又は「縁切寺」といいます)
2年ほど寺で奉公すれば、
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寺が夫から三行半を受け取り、それを妻に渡すことで離婚が成立しました。
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幕府公認の縁切寺以外にも、全国各地に類似施設があり、
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また代官所や陣屋(役所)、庄屋(村長のような役職)へ妻が駆け込んだ場合は、妻側からの離婚訴訟提起とみなされました。
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このように全国的にも、妻側からの離婚訴訟提起をはじめする様々な離婚手段があったとされ、
またその前段階として、妻の実家や仲人、親類等による夫婦間調停を行うことが慣習となっていたとのことで、
これらのことが夫の追い出し的な離縁意思を抑制していたものと思われます。
離婚後の子供の親権については、原則協議により、
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また協議が整わない場合は、夫が親権を持つとされていました。
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財産の処理については、江戸時代は原則として夫婦別産制であり、
妻の財産は婚姻時に持参したものだけでなく、
妻が婚姻中に取得したものであっても妻の財産であり、
妻に過失(落ち度)がなく、夫の都合で離婚する場合は、妻の実家に返還されるものとされていました。
婚姻時に、
「将来離婚する場合は、夫が妻に多額の財産分与をする。」
という婚前契約を交わしていた場合は、
それに従い財産分与もされていました。
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時代劇などでは、江戸時代は夫が妻を一方的に追い出し離婚するというような場面が描かれることがありますが、
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実際は法制度的には現代の日本の事情とさほど変わらず、離婚は実質、協議離婚によることが多かったと解されます。
参考文献)
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