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#50【雑感】ACジャパンCM「聞こえてきた声」をめぐる違和感(前編)
書きたいことはあるけどどうしようか逡巡していたのですが、表題のCMが根気強く放映されていたので、書いてみることにしました。
これです。
これをくらたが初めて見た時の感想は、
へえー、確かにこりゃ一本取られた。
アンコンシャスバイアスに気づかせてくれる、よくできたCMだ。
でした。
違和感その1:わからない がわからない
言葉で説明するのが難しい
ナントカ知恵袋などで否定的な意見や、よくわからないという意見も目にします。くらたの知人Bさんも「意味が分からない」と言っていました。けっこういらっしゃるみたいです。おお、そっかあ。
しかしなるほど確かに、言われてみると言葉で説明するのが難しい。
いやさ、内田樹先生が「『自分がそれを正確に指称する語彙をもたないことについて語る』という困難な作業が人間の知性にブレークスルーをもたらす」(内田樹の研究室へリンク)とおっしゃっているから説明してみる。
くらたは、各場面を見て無意識に「男性が言ったんだろうな」「女の子が言ったんだろうな」と想像した(おそらく多くの人もそうだと思う)。
最後、「聞こえてきたのは男性の声ですか、女性の声ですか」と図星を刺されることによって、「確かに、勝手に男か女かを想像してました!」と認めざるを得ないように追い込まれた。
言われてみれば、絵柄にも台詞にも性別は明示されていなかった。
言われたとおり、「パイロットになりたいのは男の子だろう」「ピンクがいいのは女の子だろう」という、無意識の思い込み・バイアスを自分が持っているということに、自分で気づいた。一本取られたよ。ちゃんちゃん。
という感じでしょうか……手応えゼロ。うーん、やっぱりうまく説明できないよ。
言葉で簡単に説明できないことを、イラストを起こしコピーを練って映像にする。「男かな」「女かな」程度にしか感想を持てないように敢えて細切れにした場面展開も巧みです。
これを作った人は素晴らしい仕事をしたとくらたは思います。
このCMが拒否感を生んだ理由について考える
「否定された感じがする」と不快感を示している人もいるそうですが、これもちょっとよくわからない。ふうん、否定かあ……。
テレビという、誰でもわかることを前提として享受されているメディアから、わかりにくいものが差し出されたことへの戸惑いなのかな?…(1)
それとも、自分の感じたことを「バイアスだ」と指されたことについて、自分の感性が否定されたと感じたってこと??…(2)
(1)わかりにくいものが差し出されたことへの戸惑い について
考えあぐねて、『街場の成熟論』(内田樹/文藝春秋 文藝春秋社HPへリンク)をパラパラしていたら、引用するのにちょうどよさそうな内容がありました。おお、シンクロニシティ。
師弟関係を通じて、弟子が劇的な成長を遂げるのは、「メッセージ」と「アドレス」の間に「ずれ」があるからである。「自分に何を告げようとしているのかはわからないが、それが自分宛てであることまではわかった」とき、弟子は、それが理解できるように自分の手持ちの記号システムを離れる。自分のそれまでの価値観や倫理規範をいったん「かっこに入れる」。意味のわからない言葉を必死に解釈しようとする。
そういう意味で、弟子は師を信じて最初の一歩を踏み出したときに、まったく無防備な状態になる。甲殻類がいったん身を護ってきた外皮を脱ぎ捨てて、脆弱で傷つきやすい状態を経由しないと、次のフェーズに脱皮できないのと同じである。
教育の場でハラスメントが繰り返し起き、それがしばしば深い傷を教わる側に残すのは、学びが起動するために弟子はこの「無防備」状態を経由しなければならないからである。師の言動を自分の「既知」の意味システムに落とし込んで理解しようとすることを抑制し、それを「自分の理解を絶した不快意味があるもの」として受け入れ、自分の手持ちの解釈システムそのものをいったん解体し、刷新しようとするからである。
(略)
この教師のふるまいが許し難いのは、それが単に教師個人の属人的な卑しさを露呈したものであるというのにとどまらず、師弟関係そのものを辱めたことにある。この教師は、彼女のうちに兆した「学びへの開かれ」そのものを穢したのである。
「自分に向けられた」「意味のわからない言葉」を理解しようとするとき、人は、「自分の価値観や倫理規範を離れ」、「まったく無防備な状態になる」必要がある。
内田樹さんはこれまでも学びについてたびたび触れ、「学びというのは『自分の限界を超える』という自己超克の緊張そのものを指す」(内田樹の研究室へリンク)、また、「世界が一変する」「『別人』になっている」などとも表現しています。
若い人のブックガイドを頼まれると、なんとなくわくわくします。
それは「こういう本を読め」とえらそうに言えるのがうれしいからではなく、「この本をまだ読んでいない人がこの本を読んだら、世界が一変するかもしれない」と想像するからです。本を閉じて顔を上げたときに、読む前とは「別人」になっているような本をお勧めせねば・・・
「分けるはわかる、わかるは変わる」とはイシス編集学校の鉄の教え。「わかる」ことは「変化」であるというのは、知の巨人たち共通の遺産的見地であると言えそうです。
このCMに虚を突かれたと感じた人ほど、これを「自分に向けられた」「意味の分からない言葉」ととらえた。そしてそれはまったく正しい。
ただ、次に要求される「手持ちの価値観や倫理規範をはなれること」や「無防備な状態になること」に、今の自分を否定された感を感じ、拒否感を覚えたのではないでしょうか。
であるならば、そうした「否定された感」を感じ拒否感を覚えた人こそ、学びの戸口に正しく立っているともいえる。まさにそこにこそ、内田樹が「学び」としたもの、茂木健一郎が「aha」体験と呼んだものが存在している証左と言えそうです。
自力でそこを超えるのが難しいから、その手助けとなる師匠やメンターが必要なのでしょうね。テレビCMでちょっと差し出されたくらいでは踏み出すことができない。
加えて言えば、拒否感を感じた人ほどその先の跳躍は高く飛べそうな気がする。なんとなく。くらたみたいに「あ、『アンコンシャスバイアス』の話ね、いいCMだね」なんてしたり顔で言ういけすかない奴よりも、「何言ってんだかさっぱりわからない」と感じた人の方が一線を越えた時の世界の変わり方は大きいでしょう。
(2)自分が感じたことを否定された? について
また、もういっぽうの「自分の感性を否定された」という拒否感について。
それこそが「感性」の危険性でありこのCMの勘所ではないかと。そこを正しく照射したことにこそこのCMの功績があると言えるのかもしれない。
くらたのフラの大師匠さまは、「人間、感じることからは逃げられない」とおっしゃいます。経験的にも納得性の高い言葉です。人間が感じることから正しく逃げられるなら、精神科医の仕事は激減するはずだ。
感じることから逃げられないからこそ、それが何に影響を受けているか、偏りはないのかの「メタ認知」、もし認知のゆがみがあればそれをアップデートしていこうとする心づもりが大切なのだと思います。
『オズの魔法使い』では、オズの国に入るときに、自分では外すことができない緑色のレンズのメガネをかけさせられます。だから街は緑に輝いて見えるのです。これでは物の本当の色は見えませんよね、恐ろしや。見事なメタファーです。差し当たっては、安全なジャガイモを見分けることができなくて困りそうです(ジャガイモが緑色になってしまったら、緑の部分は食べてはいけません macaroniサイトへリンク)
感じ方はまず、そのときの心身のコンディションの影響を大きく受けます。
大学時代の演劇サークルでは、近隣の大学同士、演劇部の公演を観劇しあう文化がありました。そこでは必ず感想アンケートを書いてくるのがマナー。そのことについてある後輩が「おなかがすいているとアンケートを厳しく書いてしまうので、ご飯を食べてから観に行くようにしている」と話してくれました。20歳そこそこの若い男子が、意識的に自分の身体を整えてメンタルコントロールしている姿に感動しました。勉強になったよ!
彼はほんとうによくできた尊敬すべき人物でした。彼と話していてわたしが「さもありなん」と言ったら「???」という感じだったので「ありそうなことだねぇ」と言い直したら「言い直してくれてありがとうございます!」と言われました。一般会話で「さもありなん」を使うほうがおかしいのに、なんていいやつ……!!
なお彼はアラフォーパパとなった今でも演劇の世界で活躍しています。
また、認知のゆがみの補正の重要性については、早稲田メンタルクリニックの益田先生は、「主観2.0」という言葉で説明しています。
実はこの話題、「人間は感じることから逃げられないからこそ、メタ認知とアップデートが重要」って、ついこないだあーちゃんと話した話と完全に一致していて、セレンディピティにビビります。
と、友達とする会話の内容として普通じゃない??
フ…フン、そんなことはわかってるもん。
今日もここまでお付き合いありがとうございました!
書いてきて、結構、モヤモヤを整理できてきました。
でも、もうひとつあるモヤモヤについて明日続けます。
よろしかったらまた明日、お付き合いください。