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「ブラフマンは観賞者」説批判!?島岩「シャンカラ」

「ブラフマンは観賞者」説批判!?島岩「シャンカラ」

岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」では、以下のシャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」の箇所を引用して、「(中略)特に観察者(中略)の面が強調され(中略)」るとしている。

 夢の中で乞食している姿が見られるとき、その見られた身体はかれ自身ではないように、アートマンは覚醒状態において見られる身体とはまさしく別のものである。かれは客体である身体をも見る主体であるから。

「ウパデーシャ・サーハスリー」14章2節より
岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」より

また、こうとも書かれている。

(中略)『ウパデーシャ・サーハスリー』では(中略)「鑑賞者」としてのブラフマンが、(中略)強調して語られているという印象を受けます。

同書より

要するに、「ウパデーシャ・サーハスリー」に、かれ(アートマン)は客体である身体をも見る主体だと書いてあるわけだよね。で、「ウパデーシャ・サーハスリー」はシャンカラさんの著作だから、間違えたことを書いてるわけじゃないはず。どこに、問題があるの?やっぱり、二番目の引用文で言っているように、「ブラフマンは観賞者」じゃないの?

実は、本稿では、岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」が採用する「ブラフマンは観賞者」説(便宜的にボクが名付けた)、要するに、ブラフマン=「見る者」みたいな説の批判を試みようと思ってるんだよね。

でもさー、「ウパデーシャ・サーハスリー」の上の箇所は、明らかに、「ブラフマンは観賞者」説をとっていて、要するに、ブラフマン=「見る者」みたいな説をとっているじゃん。どうして批判できるの?

島岩「シャンカラ」によれば、究極的真理の次元と、日常的経験の次元がある!

島岩(しま・いわお)元教授の人生をかけた一冊、「シャンカラ」によれば、以下の記述がある。

(中略)そして最終的には、日常的経験の次元とは、先に述べたように主客の対立という二元的な枠組みに基づくものであり、究極的真理の次元とは、このような二元的な枠組みを越えた不二一元の次元であるということを念頭に置いて、個々の具体的な場面に応じて、シャンカラの真意すなわち究極的真理の次元にあるものを理解していくことにしたい。

島岩「シャンカラ」より

要するに、島岩元教授によれば、主客の対立がある日常的経験の次元と、主客の対立のない究極的真理の次元を、シャンカラさんは使い分けており、そしてシャンカラさんの真意は、究極的真理の次元だということだ。

うーん、じゃあなんで、シャンカラさんは、そんな2つの次元を使い分けるなんていう面倒くさいことをしたの?

「ウパデーシャ・サーハスリー」は、シャンカラさんの唯一の独立著作で、入門者向けに、悟りへの道を説いたものらしいんだ。入門者にいきなり究極的真理の次元を説いても理解できないじゃん。だから、入門者向けに、まずは、便宜的に、日常的経験の次元で、説明している箇所もあるわけなのさ。

つまり、説明の便宜上、2つの次元にわけて説明してるんだね?!

ちなみに、「ウパデーシャ・サーハスリー」だけではなく、シャンカラさんの全著作に対して、言えることらしいんだけどもね。

上で引用した「ウパデーシャ・サーハスリー」の箇所は、主客の対立のある日常的経験の次元だよね?

上で引用した「ウパデーシャ・サーハスリー」の箇所は、主客の対立のある日常的経験の次元だよね?

そうだね。思いっきり「客体」・「主体」という単語を用いているから、主客の対立はあるね。・・・ということは、日常的経験の次元??

そうなんよ。上で引用した「ウパデーシャ・サーハスリー」の箇所は、日常的経験の次元で、便宜的に語られている箇所、すなわち、シャンカラさんの真意=究極的真理の次元では、語られてない箇所なんだ。

なるほど!じゃあ、上の「ウパデーシャ・サーハスリー」の引用箇所は、究極的真理の次元ではなく、日常的経験の次元の話であって、「ブラフマンは観賞者」説の根拠にならないわけだ!(ビックリ!!)

シャンカラさんの真意は、主客の対立のない究極的真理の次元!!

島岩元教授によれば、シャンカラさんの真意は、主客の対立のない究極的真理の次元なのさ。

主客の対立がない、ということは、「見る者」と「見られるもの」もないわけじゃん。だったら、「ブラフマンは観賞者」説は、シャンカラさんの真意ではないことになるねぇ・・・。

だから、シャンカラさんの真意は、「ブラフマンは観賞者」説にあるのではないということになるね。

うーん。確かに、「ブラフマンは観賞者」説批判になってる!結局、島岩元教授によれば、シャンカラさんの真意はなに?

要するに、わかりやすく言えば、「ブラフマン=アートマン」、それのみであって、主客の対立がない、みたいになるわけよー(笑)

(中略)従って、究極的真理の次元とは、ブラフマン=アートマンという次元あるいはブラフマン=アートマン以外には「第二のものは」なにも存在しないという次元、すなわち不二一元の次元のことを言っていることになる。

島岩「シャンカラ」より

なるほど!確かに、そっちのほうが「ブラフマンは観賞者」説よりも、説得力があるような気がするね!(笑)

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