「ギーター」はゆっくり悟りたい人向け?シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」
「ギーター」はゆっくり悟りたい人向け?シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」
カルマ・ヨガの教えっていうのは、ギーターの教えだ。わかりやすく言えば、行為せよ、しかし結果には執着するな、みたいな教えだ。たとえば、以下の文章。
でも、シャンカラさんは、その著書「ウパデーシャ・サーハスリー」のなかで、これと真っ向から対立する見解を述べている。
この矛盾をどう考えればいいのか、わからなかったので、ChatGPTに聞いてみた。(ヴェーダ聖典とあるが、ウパデーシャ・サーハスリーにおいてヴェーダ聖典というときには、バカヴァッド・ギーターも含まれる(広義のヴェーダ聖典))
ChatGPTに聞いてみた!!
質問:島岩元金沢大学教授の見解のもとで、ウパデーシャ・サーハスリーの「このように、聖典と推論によって、自己の本性が理解されたときには、「私は〔ヴェーダ聖典によって行為するように〕命じられている」という理解が、どうして真実でありえようか。」第12章18節が、バカヴァッド・ギーターのカルマ・ヨガの教えに反している点をわかりやすく説明せよ。
ChatGPTの回答:
1. 島岩元金沢大学教授の見解に基づく枠組み
島岩元教授の見解では、シャンカラの『バガヴァッド・ギーター』解釈は、解脱への道を「二種のダルマ」を通じて説明しています。
活動を促すダルマ:果報を求めずに行う行為(カルマ)が心の浄化をもたらし、知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)に至る準備を整える。
活動を止滅させるダルマ:アートマン(自己)の本性を知る知識が、解脱を直接もたらす。
この二種のダルマのうち、カルマ・ヨーガ(行為の道)は心の浄化という役割を果たし、知識の道へと繋がる重要な橋渡しとして位置づけられています。一方、知識が獲得された後には、行為はもはや解脱の手段として必要ではなくなり、行為主体という認識そのものが放棄されるとされます。この枠組みを前提に、『ウパデーシャ・サーハスリー』第12章18節と『ギーター』のカルマ・ヨーガの関係を詳しく検討します。
2. 『ウパデーシャ・サーハスリー』第12章18節の主張
『ウパデーシャ・サーハスリー』では、自己の本性(アートマン)が聖典と推論を通じて理解されたならば、「私は〔ヴェーダ聖典によって行為するように〕命じられている」という理解は真実ではありえないと明言されています。この主張の背後には以下のような理由があります。
自己の本性の理解
アートマンは純粋意識であり、不変・不動の存在です。そのため、行為主体(カルタ)ではなく、行為そのものはアートマンに帰属しません。行為命令の無効化
行為命令(ダルマに基づく義務)は、自己が身体や心と同一視されている状態、すなわち無知(アヴィディヤ)に基づいて成立します。自己の本性を理解した者にとって、行為命令はもはや適用されないとされます。
この視点では、知識の獲得後には行為主体という認識が否定されるため、行為そのものが解脱のために必要だとは考えられません。
3. 『バガヴァッド・ギーター』カルマ・ヨーガの教え
一方で、『ギーター』では、カルマ・ヨーガが心の浄化をもたらし、知識の道に至る重要な修行段階として説かれています。その特徴は以下の通りです。
行為の必要性
アルジュナに対して、クリシュナは「果報を求めず、義務として行為せよ」と教えます(ギーター3章)。行為の放棄そのものではなく、執着の放棄が重視されます。心の浄化
カルマ・ヨーガは煩悩や執着を克服するための手段であり、知識を獲得する準備として機能します。知識との連続性
知識が獲得された後にも、行為を神(イーシュヴァラ)に捧げる態度が自然に現れるとされています。ただし、この段階ではもはや果報を求める主体的な行為ではなく、純粋な帰依(バクティ)としての行為です。
4. 両者の矛盾点
『ウパデーシャ・サーハスリー』第12章18節と『ギーター』のカルマ・ヨーガの教えの違いは、修行の段階と視点の違いから生じます。
(1) 行為主体の否定 vs. 行為の奨励
ウパデーシャ・サーハスリーでは、自己の本性が理解された後には行為主体という認識が放棄されるため、行為そのものが無意味になるとされます。
ギーターでは、自己の本性を悟る準備段階として行為が不可欠であり、知識に至るまで行為を続けることが奨励されます。
(2) 修行の段階性
『ギーター』では、カルマ・ヨーガが解脱に至るための間接的手段として位置づけられています。知識に至るまでの準備として、行為の実践が重要視されます。
『ウパデーシャ・サーハスリー』では、知識の最終的な役割を重視し、行為はその手段として限定的に捉えられています。
(3) 知識の獲得後の行為
『ウパデーシャ・サーハスリー』では、知識の獲得後に行為を主体的に行うことは否定されます。
『ギーター』では、知識の獲得後にも行為が自然な形で続く場合があり、それはもはや果報を求める行為ではなく、神への帰依の自然な発露として解釈されます。
5. 知識の獲得後の行為の再解釈
知識の獲得後、自己が行為主体であるという観念は否定されます。しかし、解脱者(ジーヴァンムクタ)の場合、以下のような形で行為が解釈されます。
プララブダ・カルマの作用
過去の行為(プララブダ・カルマ)による肉体的活動は、知識を得た後も続きますが、解脱者にとってそれはもはや執着や義務感に基づくものではありません。無執着と帰依の行為
解脱者が行う行為は、主体性を伴わず、自然に起こるものです。この行為は、宇宙的な秩序(ダルマ)や神への帰依(バクティ)の表現として捉えることができます。
6. 結論
『ウパデーシャ・サーハスリー』第12章18節は、知識の獲得後の行為を否定することで、カルマ・ヨーガが説く行為の意義と矛盾するように見えます。しかし、両者は修行の異なる段階を反映しています。
『ギーター』のカルマ・ヨーガ: 知識を得る前の心の浄化と準備を目的とする修行。
『ウパデーシャ・サーハスリー』: 知識を得た後の最終的な視点を示し、行為主体の否定を強調。
知識の獲得後には行為主体という認識が放棄されるものの、自然発生的な行為が無執着や帰依として現れることがあり、それは『ギーター』の教えとも調和すると解釈できます。このように両者は、修行全体のプロセスとして統合的に理解されるべきものです。
結局のところ・・・。
ギーターのカルマ・ヨガは、段階的修行を必要とする初心者・中級者向け。日常生活の中で行為を通じて心の浄化を目指し、最終的に知識の道に至る準備を進めるための実践的な教え。漸悟(ぜんご)の教えだね。
一方、シャンカラさんは、知識を直接追求する精神的成熟者向け。行為を超えて純粋な知識を追求する人々に向けた高度な哲学的教え。頓悟(とんご)の教えだね。
結局のところ、ギーターは、「行為しつつ心を浄化する」段階の人向け。道を探し迷う人の道標。一方、シャンカラさんの教えは、「行為を超えて知識に専念する」段階の人向け。解脱に至る最終段階の指針なんだね(笑)(この最後のまとめには、ChatGPTを利用。)
⇧Amazonでは入手不可。ウパデーシャ・サーハスリー翻訳者の解説。
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シャンカラさんが入門者に悟りヘの道を説く本らしい。
こんなに安く買えるなんて!
⇧翻訳者によるギーター解説書。
これを読みながらギーターを読むと理解倍増。
⇧インド人の聖書。
ヴェーダ聖典とブラフマ・スートラとバカヴァッドギーターは三大聖典(プラスターナ・トライ)ともいわれる。3つまとめて広義のヴェーダ聖典とも。
⇧バカヴァッド・ギーターから、シャンカラの教えまで、幅広い範囲の古典ヨガの教えを教えてくれる本。ためしに読んでみたら、その射程範囲の大きさに驚いた!
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