ちゃりほんつりー|文学的でありたい。

文学的でありたい。

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  • 文学的でありたい

    文学的でありたい。文学的とはどういうことか。 普通に仕事をして、普通に社会人として生活してきたわけだが、「文学的でありたい」と思いながら生きてきたので、じゃあ「文学的って何?」という思いで、毎日書いてみています。

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これまでの「文学的でありたい」

9月16日にこのnoteを開始して、どんなことを書いてきたのか、簡単にまとめてみたいと思う。(2024/10/14現在) ※「マガジン:文学的でありたい」のほうを見ていただくと、「前の記事」「次の記事」ボタンで、順番に読むことができます。 ※それぞれの目次項目のリンク記事は、その目次項目の最初の記事にリンクしています。 はじめに「文学的でありたい」と思って生きてきた。 私にとっての「文学的」ってのは何?と疑問に思ったので、noteを書き始めた。 「文学的ではない」状態

    • 文学が扱う、心の闇のようなもの(文学を人生のBGMに④)

      文学が扱う、心の奥底の、見にくい(醜い)部分。 露悪的に、秘密を開示するように、直視するのはつらい部分を、文学的なものは扱う。 それは、普段は摂取することが禁じられている、毒である。 あるいは、それを摂取することで、後には戻れなくなる禁断の果実である。一休さんに出てくる和尚さんの水飴。 エロ、グロは、社会が見なくていいようにしている。 それは、そのほうが、目を背けているほうが、ラクだからでもあるんじゃないか。 文学的であるためには、苦しいほうの道を選ばなければならない。 (

      • 作家のテーマ(文学を人生のBGMに③)

        村上春樹氏は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を出版した時、インタビューで「フィッツジェラルドの文学」という言い方をしていたが、作家には、それぞれに文学がある。 テーマのようなものがある。 主題(テーマ)というか、業というか、問題意識というか。 毒、というか。(毒という言い方については、拒絶されるべき心の暗部、恥部、みたいなニュアンスが出るので、必ずしもそうではないのだが、テーマの中には、そういうものも、躊躇なく含まれる。) それを追いかけた結果が、作品ひとつひとつに込めら

        • 文学の毒(文学を人生のBGMに②)

          9/26に、「社会人になる時に、心を硬くして武装するのはどういうことだろうか」と書いた。 都合の悪い自意識や反抗心、感受性豊かな心、繊細な心、そういったものは、社会の求めに応じてバリバリ働く際には、余計なものとなろう。 従順な奉仕の魂だけでいい。 心を硬くせよ。 執事のそれだ。 クリストファー・ノーラン監督版の『バットマン』が好きだ。 主人公の金持ちブルース・ウェインの執事、アルフレッドも大好き。 彼は小さい頃から、両親を亡くしたブルースのそばで仕えてきた。 いろいろ小言

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          文学を人生のBGMに①

          結局、私にとっての「文学的でありたい」とは、 ①心をなくしたくない ②充実したウェルビーングな生活を送りたい ということか。 「文学は心を扱う」というタイトルで前回まで書いてきた。 多忙やなんやで心をなくしたくはない。 心をなくさないために、心を扱っている文学を大切にしたい。 でも、仕事や家庭に忙しくなると、文学を大切にしない自分がいた。 だから、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』?というモンダイについて考えてみているのだ。 心をなくさずに、ウェルビーングでいられる

          その毒を欲している(文学は心を扱う⑱)

          心をなくしたくない。 無感動は嫌だ。 でもそれは、熱狂や喧騒ばかりを求めるもの、ドラマチック思考とかの、常に感動体質、頭の中お花畑、とか、そういうことではなく。 やさしいまなざしでいたいということ。 他者の存在(=ノイズ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)を忘れない、ということ。 でも、そんなに簡単なことではない。 他人の人生(情報という観点で言えばノイズ)が干渉してくる。 ふりほどけ、鎖。 ふりはらえ、柵|《しがらみ》。 それは、時に私たちの足を引っ張るものだ。

          その毒を欲している(文学は心を扱う⑱)

          心をなくして生きたくはない(文学は心を扱う⑰)

          社会に出て、がむしゃらに働いて。 気がついたら氷の砂漠。 何かに擦り切れて、痛い。 擦り切れて丸くなるまで、この痛みは続くんだろう。 まだ、丸くなり切れてはいない。 いや・・・丸くなるのって、死ぬ時なんじゃないか?! スピッツの『シロクマ』という曲を聴いた時、どうしようもない気分になった。 ぶわっと涙が出て、なんとかしなくちゃいけない、という思いが湧き上がってきた。 心をなくしたくない。 文学的でありたい。 それはつまり他者への想像力をなくさず、自分自身の心の動きを自由に

          心をなくして生きたくはない(文学は心を扱う⑰)

          ノイズを受け入れる(文学は心を扱う⑯)

          三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に、読書におけるノイズについてのくだりがある。 2000年代、「文脈も歴史の教養も知らなくていい、ノイズのない情報(p203)」ばかりがあふれている時代。 「階級を無効化する」点では画期的な時代かも知れないが・・・。 三宅氏はファストな「情報」と、ノイズを含む「知識」とに分けて考えている。 [ノイズを含む情報=知識]を摂取する余裕を。 そんな半身社会を。 そしてこの「ノイズ」は、私にとって、「他者そのもの」とも読み取れる

          ノイズを受け入れる(文学は心を扱う⑯)

          これまでいろいろな作品を味わってきた2(文学は心を扱う⑮)

          AIも、作品を「学習」しているのだろうが、AIと人間の作品の取り込み方で違うのは、もしかして、余分な何かだ。 例えば作品Aを読んでいる時に、音楽Bをよく聴いていたりする。 人間の学習とは、そういうものだ。 ドーナツを食べていたり、失恋していたり、緊張していたり。 その時の状況というものが、インプットに余分なノイズ(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』p224)を忍び込ませることになる。 そういう余分な何かが、不確実な未来を生む。 予定調和ではない、多様な未来を選ぶ。

          これまでいろいろな作品を味わってきた2(文学は心を扱う⑮)

          これまでいろいろな作品を味わってきた(文学は心を扱う⑭)

          これまでいろいろな作品を味わってきた。 芸術を食み、その味についてうんぬんする。 でも、忙しいと、人は他人の「食」に、苛立つようになる。 あなたはそれを購買する能力があったのですね。 あなたはそれを味わう時間があったのですね。 あなたはそれについて発言できる余裕があったのですね。 ・・・嫉妬の嵐。 個人的な感想文を楽しめる余裕があるか。 「半身社会」(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)に必要なのは、心の余裕である。 料理人(作者)にはお客(読者・批評家)の反応感想

          これまでいろいろな作品を味わってきた(文学は心を扱う⑭)

          noteを書くために(文学は心を扱う⑬)

          書くことは、ふりかえることである、と以前書いた。 このnoteを書くために、いろいろな書物へ立ち返っている。 懐かしき再訪。 自分の中で、「つなげていっている」。 人間の脳内で、ノードとノードが、ニューロンとニューロンが、ミームとミームが、つながっていく。 引用しつつ、ウェブ上で「つなげていっている」。 論文の中で、論文同士が引用されてつながっていくように、noteで引用してリンクして書いていくことで、何かと何かがつながっていく。 読者と、その書物を、「つなげていっている」

          noteを書くために(文学は心を扱う⑬)

          心を分析する(文学は心を扱う⑫)

          ネットを検索していたら、よしもとばなな氏の小説についての学士論文が見つかった。 よしもとばなな小説作品の構造特性   ~主人公の心理のグラフ化をもとに~ 小説の中の、主人公の感情の起伏を、心理状態で点数化して、グラフに表そうという試みである。 その中に、ローズマンがあらわした、認知次元と感情の関係表というものがあって、人間の感情について、リストアップされていた。 論文著者は、これに「共感・願い・予感・思いつき・あきれ」を加えている。 また、ここには、罪悪感、恥ずかし

          心を分析する(文学は心を扱う⑫)

          心とは何か(文学は心を扱う⑪)

          文学は、心を扱う。 では、AI時代に、「心」とは何か? 外界の刺激に対して、何らかの反応をする、脳や心臓の中の、ブラックボックス。 心は、贈り物とか、表情とか、そういうものでも表現できるけれど、大部分、言葉によって表現される。 嬉しい、悲しい、寂しいなど、言葉は心の状態を名付けている。 ところでこれまで、私にとっての文学的な状態とは、心が動く状態だ、感動するような状態だ、と定義してきたのだけれど、心って、動かしたほうがいいものなのか? 凪、ではいけないものなのか? 静かで

          心とは何か(文学は心を扱う⑪)

          心理描写を廃した文学作品(文学は心を扱う⑩)

          前回、記録する、ということについて書いたが、ともかく記録する、ということに徹底した文学作品、心理描写を廃した文学作品もある。 Aさんが○○をした。○○へ行った。○○を買った。 といった、映像的な、事実の描写だけで、いっさいの感情的な表現が書かれていない文学作品。 新聞のようだが、ニュースのようだが、作品として成立するもの。 読者は、それらの行為、行動の観察から、感情、考え、方向性、過去などを想像して、透視しなければならない。 作者の意図が見える? 何が、新聞記事のような文章と

          心理描写を廃した文学作品(文学は心を扱う⑩)

          記録から何かを読み取る(文学は心を扱う⑨)

          最近では、日記というより、日誌のようなものをつけている。 ひとつに、いちいち文学的な表現を用いて長いまとまった文章を書く暇がないということ。 ふたつに、実は時間はあるが、言語化するという行為がめんどくさく、記号的に、ただただ記録だけになってしまっているということ。 別に、いちいち文章化して、存在を認めて、励まして立ち上げて、ほめてやらずとも、日常はそこに「ある」のではないか、と思う向きもあった。 長く生きるとマンネリ化してしまう(マンネリズムについては「なぜ働いていると本

          記録から何かを読み取る(文学は心を扱う⑨)

          記録してふりかえる(文学は心を扱う⑧)

          前回の記事で、「文章の中に時代を閉じこめれば、それはすべて懐かしさをもって読み返すことができる」と書いたが、あらゆる記録は、その時代を閉じ込める。 メモでも、本に線を引いたり書き込みをしたり、すべての記録は、その瞬間を刻み込んでいる。 (だから為政者たちは記録を消去しようとするのだ。) この頃では、デジタルで「ログ(記録)」が残る。 その一挙一動を、ウェアラブル機器が監視していたりもする。 でも、日記は、文章による記録は、ちょっと違った意味を持っている。 見えているもの、

          記録してふりかえる(文学は心を扱う⑧)