ちゃりほんつりー|文学的でありたい。

文学的でありたい。

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  • 文学的でありたい

    文学的でありたい。文学的とはどういうことか。 普通に仕事をして、普通に社会人として生活してきたわけだが、「文学的でありたい」と思いながら生きてきたので、じゃあ「文学的って何?」という思いで、毎日書いてみています。

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これまでの「文学的でありたい」

2024年9月16日にこのnoteを開始して、どんなことを書いてきたのか、簡単にまとめてみたいと思う。(2024/11/23現在) ※「マガジン:文学的でありたい」のほうを見ていただくと、「前の記事」「次の記事」ボタンで、時系列で順番に読むことができます。 ※それぞれの目次項目のリンク記事は、その目次項目の最初の記事にリンクしています。 はじめに1.「文学的でありたい」と思って生きてきた。私にとっての「文学的」ってのは何?と疑問に思ったので、noteを書き始めた。 2.

    • 読まなければ、文学的に生きることはできない(創作的な文学的⑫)

      ショウペンハウエルは、『読書について』の中で、読書とは、他人に思考を任せること、自分の頭で考えることを放棄した、だらけた行為である、というようなことを言っていた。 もちろん、読書に耽溺し、その世界に逃げ込み、現実を生きようとしなかったり(庵野監督の懸念したエヴァンゲリオン現象)、自分で考えることはせずに、誰かが言っていたことの受け売りばかり(ネットが普及して加速した、どこかのサイトに答えがあるんじゃないか現象、今日も検索、検索、検索)になるのはよろしくない。 けれども、読

      • noteに書くことは「ねえ、お母さん」みたいなもの(創作的な文学的⑪)

        母親の教育方針で、小学校の頃、絵日記を毎日書かされた時期がある。 父親の教育方針で、正月には決意作文を提出させられた。 特に厳しく直されるものではなく、ただ書きっ放しでよかった。 ただし、必ず書かなければならなかった。 思えば、ともかく書くというこの習慣は、文学的であろうとする今の自分にとって、とてもよいものであった。 兄弟姉妹たちは、しかし、現在文学的であろうとは思っていないようなので、この「書かなければならない」という習慣は、私の特性とぴったりとはまった、ということ

        • 大昔の日記を読み返してみる(創作的な文学的⑩)

          30年近く前の、中学時代の日記を読み返してみている。 太宰治の文体や、芥川龍之介の文体を借りたりもしながら、自分自身について、文章で書いていっている。 テスト勉強から逃避して、つらつら自我を発見していく作業に、後ろめたさを感じている。 この頃から、大衆文学、中間文学、純文学という言葉が出てきている。(参考:文学=純文学?(文学とは何か⑤)|ちゃりほんつりー|文学的でありたい。) そして、自分はどの作家を目指そうか、なんて考えたりしている。 赤川次郎、宗田理などを読みながら

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        記事

          その文体だけ借りて、あとは自分の現実を「描く」といい2(創作的な文学的⑨)

          私は少年時代、本を読むのが好きだった、と思う。 少なくとも、嫌いではなかった。 嫌いではない、という才能はもっていた。 そんなわけで、文章で考える、文章を自分の価値観の水準器として設置する(村上春樹『遠い太鼓』)、ということをしたようだ。 前回書いたように、私は太宰治の文体を借りて日記を書いていた。 今回、久々に読み返した。 1996年の、30年近く前の中学生の日記である。 大学ノートに、赤いボールペンで、びっしりと文字を書き連ねている。 まず大人になって、手書きで、ここ

          その文体だけ借りて、あとは自分の現実を「描く」といい2(創作的な文学的⑨)

          その文体だけ借りて、あとは自分の現実を「描く」といい(創作的な文学的⑧)

          作家の描写にいちいちついていくのが疲れたり、飽きたりしたのなら、でも文体が気に入ったのなら、その文体だけ借りて、あとはその文体で自分の現実を「描く」といい。 昔、中学生の頃、太宰治の『人間失格』に衝撃を受けて、その文体で日記を書いたことがある。(他にもやったことがある人は多いに違いない。) 人間に傷つき、人間に疲れ、それでも人間を信じる(信じようとする)文体だった、と思う。 ショウペンハウエル『読書について』には、「読書とは他人に考えてもらうことである」とか、「(読書中は

          その文体だけ借りて、あとは自分の現実を「描く」といい(創作的な文学的⑧)

          翻訳する(創作的な文学的⑦)

          村上春樹さんは、多くの小説を書かれただけではなく、翻訳家としても大変多くの本を出されている。 この本の中で、春樹氏は、「小説を書くというのは、バランスを失いかねない危機をはらんだ作業である(p16)」とおっしゃっている。 それに比べて、「翻訳はテキストが必ず外部にある。距離をうまくとってさえいけば、道に迷ったり、自己のバランスを崩したりというようなことはまずない」と述べられている。 なにより、「生き生きとした気持ちになれる」ことが重要だ。 文学の翻訳は、文学の読書であり、言

          翻訳する(創作的な文学的⑦)

          遠い太鼓(創作的な文学的⑥)

          ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると聞こえてきた、何処か遠くからの太鼓の音──。 その音にさそわれて、1986年秋から1989年秋までの3年間、村上春樹さんは、ギリシャ・イタリアへ長い旅に出る。 その間に『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書かれた。 そして、大ベストセラーになっていた。 若い頃、上記二作品を書いていた頃の身辺雑記として、つまり創作秘話として、この本を読んだところがある。 自分も作家として、このように考え、このように旅したい、と夢見た青春の頃。

          遠い太鼓(創作的な文学的⑥)

          表現する者(創作的な文学的⑤)

          自分でも表現をする、ということについて。 身を切る。血を吹き出しながら。 それを見てもらう。 のたうちまわる自分を、 必死のパフォーマンスを。 昨今の、インターネットでプライベート思考を切り売りしている人々も。 自分の頭の中を覗いてもらう、ということは、それなりの覚悟が必要だ。 批判にさらされる魂。 解剖されるココロ。 毎度アスカ・ラングレーは大衆の面前で、天使達に貫かれる。 みじめさを受け入れて書く。 太宰治の道化。 大江健三郎の道化。

          表現する者(創作的な文学的⑤)

          創作しながら消費する(創作的な文学的④)

          前回の、「批評」つづき。 現代は「全員批評家」時代だ。 作者と批評家が、誰でも可能に、自由化・民主化されたみたい。 民度を上げなければ・・・ アマゾンレビュー、ブログ、SNS、いろいろなところで個人が批評を行う。 それぞれに発言の力をもっているということと、それぞれが発言に責任をもつ、という意味でも、みんなが「批評家マインド」をもったほうがいいかもしれない。 今はネット上に感想がゴロゴロ。 なんなら最新作の引用まで。 叩くこと、いじめることを前提として見ている人もいる。

          創作しながら消費する(創作的な文学的④)

          その後に何か「特別なもの」が残るならそれが「文学」だ(創作的な文学的③)

          文筆だけでなく、音楽も、漫画も、映像も、さまざまなツールが進化してきて、誰でもクリエイターになれる時代。 民衆の時代! それは、王様から王冠を奪って、権力を奪って達成された、人類みんなが自由の、夢の時代ではないのか? そのスポーツや技を実際にやってみて、素人には無理だと実感してから、スポーツ観戦などすると、解像度が上がるが、小説読解も、そういうところがあるだろう。 実際に書いてみたことがあると、読む時に、解像度が上がる。 ただ、作者意識が時に邪魔をして、自分も偉大なる作者

          その後に何か「特別なもの」が残るならそれが「文学」だ(創作的な文学的③)

          なりかわったり、なりきってみたり(創作的な文学的②)

          今の自分に忙しい。 他人じゃなくてよかった! 自己肯定感を、得られている。 自己啓発、 自己ハック、 幸福の追求。 その原始には、文学があったのではなかったか。 昔の読書経験があったから、自分は選択を間違わなかったのであって、こうありたいと憧れ、あるいは、こうあってはならないと戒められた。 そんな自分経営をしてこれたのは、賞賛に値するけれど。 想像力を持って、他人になりきってみることは、必要なのではないか。 文学読書は、他人の人生を覗くということ。 いや、他人の人生を、生き

          なりかわったり、なりきってみたり(創作的な文学的②)

          このnoteへのアウトプットのルール(創作的な文学的①)

          効率化のためには、「重い処理」をさせないことである。 いちいち感情的になったり、多くの人のことを考えたりしたら、キャパオーバーになってしまう。 だから、なるべくシンプルに。 構成員を少なく。 考えることを少なくしたくなる。 けれどもそれでは物足りない、と思えるようになってきた。 仕事の量を減らし、考えるいとまを増やす。 あえて、ゆっくり仕事する。 新幹線じゃなくて、ローカル線を選ぶ。 でもそれって、なかなか難しい。 最速のもので行きたいと欲望してしまう。 それをあえゆっくり

          このnoteへのアウトプットのルール(創作的な文学的①)

          小難しい2、文学の定義(文学とは何か⑪)

          小難しい表現が文学か、続き。 ぜんぜん難しくはなさそうでも、言葉の並びとか、はっとさせる働きで、ふだんとは違った表現で、文学世界をあらわそうとする文章がある。 吉本ばなな氏の『TUGUMI』を読んでいて、はっとさせられる文章があった。 この人の文章は、平易なように思うが、独特の言葉運びがある。(それは計算されたものだと、作者は語っている。) また、突然異界に飛び込むような、いわゆるスピリチュアルな面がある。 少女漫画を取り込んだというような、オノマトペを含む表現も見られる。

          小難しい2、文学の定義(文学とは何か⑪)

          「わざわざ小難しく」が文学か?(文学とは何か⑩)

          遠回りして、分かりにくく難解にして。 哲学とか文学って、そういうものだ。 その回り道、留保が、何かを生み出すかも知れない。 モラトリアム。 結局、ただ足踏みしていただけじゃないか、と思われたり。 もじもじ君。 行動力がなかった人、にはなりたくないな。 「わざわざ小難しく」ではなくて、「必要があって小難しい」がいい。 それはいまだ世に流布され使い古されていない表現だから、なんだか小難しく聞こえるのかも知れない。 その表現でしかあらわせない雰囲気があるかも知れない。 純文学は、

          「わざわざ小難しく」が文学か?(文学とは何か⑩)

          青春は一回かぎり(文学とは何か⑨)

          加藤周一氏の『文学とは何か』(現在Kindle Unlimited読み放題で読める)に、こんなことが書かれてあった。 「あの頃」(青春時代)については、保坂氏を引いて書いたことがあるが、しかし、文学的であることによって、「あの頃」を越えるようなことを考えていかなければならない。 文学とは何か? ふたたびやりなおすことのない一瞬を刻み込むもの、という定義もできよう。

          青春は一回かぎり(文学とは何か⑨)