「わざわざ小難しく」が文学か?(文学とは何か⑩)
遠回りして、分かりにくく難解にして。
哲学とか文学って、そういうものだ。
その回り道、留保が、何かを生み出すかも知れない。
モラトリアム。
結局、ただ足踏みしていただけじゃないか、と思われたり。
もじもじ君。
行動力がなかった人、にはなりたくないな。
「わざわざ小難しく」ではなくて、「必要があって小難しい」がいい。
それはいまだ世に流布され使い古されていない表現だから、なんだか小難しく聞こえるのかも知れない。
その表現でしかあらわせない雰囲気があるかも知れない。
純文学は、時々小難しい。
大衆文学は、使い古された表現で、物語の筋をわかりやすく伝えてくれる。
純文学は、あえてゆっくり読ませるために、小難しく書かれていたりする。
大衆文学は、物語のスピードを落とさないためにも、水のように飲める表現を選ぶ。
純文学は、哲学などの他の難しい表現を取り込むから、小難しくなるのかも知れない。
この頃、そういう噛みごたえのあるもの、難解なもの、読み飛ばせないものを読む勇気というか、エネルギーというか、そういうものが出てきていて、嬉しい。
一読して、いったい何が書かれてあるのか分かりにくい。
大江健三郎さんとか、ピンチョンとか、難しくて読み辞めてしまった文学にも、手を伸ばしてみたい。