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大昔の日記を読み返してみる(創作的な文学的⑩)

30年近く前の、中学時代の日記を読み返してみている。

太宰治の文体や、芥川龍之介の文体を借りたりもしながら、自分自身について、文章で書いていっている。
テスト勉強から逃避して、つらつら自我を発見していく作業に、後ろめたさを感じている。

この頃から、大衆文学、中間文学、純文学という言葉が出てきている。(参考:文学=純文学?(文学とは何か⑤)|ちゃりほんつりー|文学的でありたい。
そして、自分はどの作家を目指そうか、なんて考えたりしている。
赤川次郎、宗田理などを読みながら、太宰治や芥川龍之介を読んでいたみたい。手塚治虫の『大暴走』に、えらく感動している。(どんな漫画だったのか、Kindleで購入した。読んでみるつもりである。)
今の自分から考えると、文学的であるとは、純文学だけにあらず、もっと言うなら文学的であるとは、小説読書だけにあらず、漫画も、アニメも、映画も、ゲームも、音楽も、哲学も、なんなら日々の生きることそのものも、捉え方によって「文学的」たりうる。

大恋愛がしたいと思っている。隣に座る、絵のうまい女性が気になったりしている。
ファミコンからはじまったゲーム産業が、プレイステーションなどで盛り上がっている。ゲームの世界に強い憧憬を抱いている。中毒性と娯楽性の強いそれは、親からもウケが悪く、やましい気持ちを抱いている。

日記を書き続けたことについて。
こうして大学ノートに、高校時代まで、日記を書き続けていた。
その後は、パソコンに書いてきた。
やがてだんだんと、日誌のようになっていった。
日記は大事だ。
日々を消費するように過ごしていてはだめだ。
慈しむように、書きつけていくその作業、その姿勢、これは「文学的だ」と思う。

今回、昔の日記を引っ張り出してきて、ちょっと読み返してみるに、青い、若い、けれども世界に対するきらきらとした眼差しを見た。
やがて大人になるにつれて、自分自身というブラックボックスがわかってくる。

言われたことは素直にできない、強制力には弱い性質。締め切りが怖い。でも、その逃避エネルギーで、なんか別の方向に進めたりする。
女の子に弱く、異性の前ではすぐに混乱し、強がってみようとする(それが成長につながる)。
権威が定めたもの、マウントのとれるものを選ぼうとする。例えば純文学。例えば良い大学。

そうして毎日書きつけていると、だんだん自分という人間がわかってくる。自分という人間がわかってくる、というのは、素晴らしいことだ。
自分という人間がいまだにわからない、という人も周囲にいる。
自分自身が何を好むかとか、何にやる気を出すかとか、何を目指しているかとか、何に幸せを感じるか、そんなことがわかるから、自分自身がわかってくる、というのは素晴らしいことだ。
自分自身を手に入れられたことは、日記を書いていて、良かったことだ。

でも、そのうち、自分自身に飽き飽きしてもくる。
同じパターン。
同じ思考回路。
他人の本を読んで、他人に考えてもらうのではなく(ショウペンハウエルの問い)、自分自身を読んで、自分自身で考えている、というのは、「創作的に文学的だ」と思う。

ところで、自分自身で文章を書いて、それを読み返したりしているが、日常生活で多くのインプットを受けている我々は、果たして自分自身でそれを書いたと言えるのだっただろうか。
そもそも日本語を授かったとき、それは自分の言語ではない。
テレビや会話や新聞や漫画やアニメや映画や小説やを「文学的に」摂取して、それをもとに書いている、その行為は、果たしてすべて自分のものと言えるのだろうか。
と、こんなことを、noteの書きながら「自分自身で」考えているつもりだけど、結局、これも、どこかで読んだか聞いたかした、誰かの受け売りなのだ。

『読書について』のショウペンハウエルの問いは、なので、読書量を減らせよ、ということには繋がらない。
むしろ、他人が考えていないものを探すために読む、ということも言える。
もうすでに他人が考えていることは、考えてもらって、その先を目指す。
読書とは、そういう、未踏の大地を探す行為でもあるかもしれない。

自分自身が選ばない選択肢を選ぶ主人公たちの小説が読みたい。
物語に、未踏の大地はあるのだろうか。
感情に、未踏の大地はあるのだろうか。
ある、という気配がする。
死ぬまで気配で終わっても、いいじゃないか。
気配だけで、文学的である。


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