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読まなければ、文学的に生きることはできない(創作的な文学的⑫)

ショウペンハウエルは、『読書について』の中で、読書とは、他人に思考を任せること、自分の頭で考えることを放棄した、だらけた行為である、というようなことを言っていた。

もちろん、読書に耽溺し、その世界に逃げ込み、現実を生きようとしなかったり(庵野監督の懸念したエヴァンゲリオン現象)、自分で考えることはせずに、誰かが言っていたことの受け売りばかり(ネットが普及して加速した、どこかのサイトに答えがあるんじゃないか現象、今日も検索、検索、検索)になるのはよろしくない。

けれども、読まずして、私はきちんと考えられるのだろうか。
難しい定理とか、新しい語句とか、感動的なシーンを思いつくのだろうか。
ショウペンハウエルの意見は、どうにも、ひとりよがりな感じがしてならない。
他人を信じていないのだ。
それは結局、以前『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』について書いていた頃に至った結論、半身社会を生きながら、他人に思いやりをもつ、他人に対する想像力をもつ、ということに、つながらないのではないか。

他人が書いたものを、読もうではないか。
他人についておもんぱかる余裕をもとうではないか。
自分自身の声を聴けていさえすれば、ショウペンハウエルのいうような、他人の思考をなぞるだけという「無私な読書行為」は発生しない。
読書を含めて、周囲から情報を摂取するときには、自分自身の思考に耳を澄ませていよう。
その情報と接触した自分自身の反応に敏感でいよう。

その上で、創作的であること。
2ヶ月ほど、文学と触れ合いながら、文章表現たるnoteというアウトプットとともに、文学的でありたい、と書いてきた。
文学と触れ合うことで、やはり、驚くほど豊饒な世界を見つけることができる、という自負ができた。
もちろん、こういう世界ではない世界を求める人もいるだろう。
絵画的なものや、音符の世界、数値だけの世界、科学の秩序、肉体的な躍動を求める人も。
ただ、言語表現芸術たる文学的な世界には、確固たる豊饒で深奥な世界があることを再確認した。
そして、まだまだ分け入っていない未踏の大地があることも。

すべてを記録ログされうる時代だが、文章を水準器として生きていく、文学的な生き方とは、自分なりに再構築した文章を書かなければならない、と思う。
その書き方は、Voicyなどの語り、Youtubeでの語りなども含まれるのかもしれないが、ともかく言葉でアウトプットすることは必要だ。
そしてそれが、樹木のように、根を持ち、幹を持ち、枝葉が広がっていくこと。
そうやって育ててていくことが必要だ。

文書という記録媒体は、映像のように、すべてをそのまま残すことはできない。
取捨選択、何を残し、何を捨てるかを考えなければならない。
桜井健次氏のVoicy(#1338 [読み返したい本]めもあある美術館 - 桜井健次研究室)で、「めもあある美術館」の話があった。
記憶が絵画になって残っている。すべてではない。強く印象に残っている瞬間だけだ。しかし、思いもよらないシーンが描き残されていたりもする。
何が描き残され、何が描き残されていないか。
記憶というのは不思議なものだ。
何を記憶として残しておくかのジャッジは、どうやってなされているのだろう?
とるにたらない記憶とは何か?
そして、大切な記憶とは何か。
その時には、自分にもわからない。
時が経って、わかってくることもある。

文章に残すとは、そうして、今現在の自分が見ているものの取捨選択を行うこと。
また、忘れたことさえも忘れてしまわないように、残して、未来に判断を委ねることでもあろう。

今回気付いたことは、読むことの大切さ、文章で残すことの大切さである。
長時間労働の隙間に、ショート動画に逃げ込むのではなくて、読むこと、文章で残すことを選び取るために、その大切さ、必要性を再確認できたのは収穫である。

今後、
働きはじめる時、いかに文学から疎遠になったのか、社会に出る時に我々はその荷物を降ろす必要があるのか、
効率化と文学は分かりあえるのか、
長時間労働や疲労でも本を読み続ける方法とはどんなものか、
あるいはこれからの子どもたちに文学は必要か、
みたいなことについて考えてみたい。


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