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創作しながら消費する(創作的な文学的④)

前回の、「批評」つづき。

現代は「全員批評家」時代だ。
作者と批評家が、誰でも可能に、自由化・民主化されたみたい。
民度を上げなければ・・・
アマゾンレビュー、ブログ、SNS、いろいろなところで個人が批評を行う。
それぞれに発言の力をもっているということと、それぞれが発言に責任をもつ、という意味でも、みんなが「批評家マインド」をもったほうがいいかもしれない。

今はネット上に感想がゴロゴロ。
なんなら最新作の引用まで。
叩くこと、いじめることを前提として見ている人もいる。

「批評家マインド」をもつさいに、もちろん、「作者マインド」を持ち合わせていれば、もっと解像度は上がるだろう。
以前AIのべりすとを試してみたことについては書いたが、AIという松葉杖を使いながらでもいい。
『物語の体操』の、おはなしカードでも、盗作(パロディor二次創作)でもいい。
創作しながら消費もする、そういうことが当たり前のほうがいい。

「小説を書く技術」を教えるためには、「小説」の正体を知らなければならないからだ。そして、たいていの小説家は、悲しいかな「小説」の正体を知らないのである。(中略)そして、大塚英志がいうように、技術として教えることのできない「小説」の部分、それをこそ、人は「文学」と呼んだのではないだろうか。

高橋源一郎『物語の体操』あとがき

この引用は「文学とは何か」にも通じる話だ。
文学の「魂」とでも言うべき部分。
皮を全部はぎ取って、中身を咀嚼して食べられて、消化液でおおかた消されても、なお、残って輝くもの。


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