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asamiy
その文体だけ借りて、あとは自分の現実を「描く」といい2(創作的な文学的⑨)
私は少年時代、本を読むのが好きだった、と思う。
少なくとも、嫌いではなかった。
嫌いではない、という才能はもっていた。
そんなわけで、文章で考える、文章を自分の価値観の水準器として設置する(村上春樹『遠い太鼓』)、ということをしたようだ。
前回書いたように、私は太宰治の文体を借りて日記を書いていた。
今回、久々に読み返した。
1996年の、30年近く前の中学生の日記である。
あ丶、太宰治がいいです。
この文体も、太宰治の『人間失格』から借りたものなんです。
勉強を真面目にする人の気が知れません。
大学へ行きたいだなんて、勉強をまともにできない自分が何故思いついたのだろう。
何だか、こっけいです。
そう思うと落ち着きます。
こっけいなんです。
無理な夢だとか希望だとかを振り回してもはじまらんのです。
こっけいな道化師の、一人舞いなんです。
大学ノートに、赤いボールペンで、びっしりと文字を書き連ねている。
まず大人になって、手書きで、ここまで書こうなんて思わない。
テスト期間中の12月で、なかなか結果が出ないことへの焦りのようなものが綴られている。
1996年と言えば、Windows95が出て、世間がパーソナルなコンピューターというものを手にし始めた時期だった。
インターネットなども創世記で、もちろんスマホもない。
テスト期間中は、友人とも隔離された時間だった。
それで、読書などで他者と対話する、ということを多くしていたのだと思う。
今の子どもたちは、常時接続が当たり前で、テスト期間中とて、SNSで励ましあい、休憩時にはゲーム上で出会い、「孤独」を感じる余裕や、「自分自身と対話」する時間はあるのかしらん。
そんなことも思ったりしました。