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その文体だけ借りて、あとは自分の現実を「描く」といい(創作的な文学的⑧)

作家の描写にいちいちついていくのが疲れたり、飽きたりしたのなら、でも文体が気に入ったのなら、その文体だけ借りて、あとはその文体で自分の現実を「描く」といい。

昔、中学生の頃、太宰治の『人間失格』に衝撃を受けて、その文体で日記を書いたことがある。(他にもやったことがある人は多いに違いない。)
人間に傷つき、人間に疲れ、それでも人間を信じる(信じようとする)文体だった、と思う。

ショウペンハウエル『読書について』には、「読書とは他人に考えてもらうことである」とか、「(読書中は)我々の頭は他人の思想の運動場」とか、書いてある。
つまり、自分で考えていないのである。
文学的でありたいので文学とかを読書するが、何も考えてないという状態は、文学的ではない!

文学的であるというのは、作家の描写に身を任せて、空想の世界を旅するとか、この世界の裏側を見るとか、異化するとか、ヒドゥンカリキュラムみたいなものに気付くとか、そうして他人に思いやりを持つ想像力をもつ、みたいなことなのだけれど、
自分でものを考えなくなる、自分で世界を感じなくなる、というようなことではない。
自分の中のボイスを持つ、ということを忘れてはならない。

ところで、ショウペンハウエル(1860没)の中で、「文学」とは何か。
詩や小説ばかりではなく、哲学も含めて、ひろく言語表現一般をさしていたようだ。


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