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2024年11月の記事一覧
シン・現代詩レッスン91
北村太郎「詩の詩」
『新選 北村太郎詩集』からなのだが、この詩は本文に掲載されているのではなく、政津勉の解説によるものだった。その解説によると四十四歳で急に詩集をだしたのは、やはり例の恋愛事件が発端だったようだ。そのなかで詩とはとか死とはとか、祈りはとか愛はとかいろいろ考えたのであろう。「詩の詩」は詩作における基本的スタイルで、同音異義語(わたしもよく使うが)「死の死」という作品が4篇収められて
シン・現代詩レッスン90
北村太郎「夏の果て」
この詩も『新選 北村太郎詩集』から。北村太郎の最初の詩集が発表されたのが四十四歳の時で、「荒地派」の中ではかなり遅い。本人はまとめるのに時間がなかったと言うが、それまでは詩集を出す必要もなかったのだと思う。
例の不倫事件で金が必要になったのかもしれない。新聞社を五十四歳で退職するまでは三冊の詩集を出したが退職後は九年間に7冊の詩集を出したという。1986年の鮎川信夫のエッ
シン・現代詩レッスン89
北村太郎「眠りの祈り」
谷川俊太郎氏が亡くなった。それほど思い入れはないのだが、過去に何回か取り上げた記事があったので追悼のためにあげておく。
改めて『新選 北村太郎詩集』から北村太郎「眠りの祈り」。センチメンタル・ジャーニー」が載っていないから最近の作品なのか?鮎川信夫のエッセイが出ているのだが「センチメンタル・ジャーニー」をやっぱ賞めている。全体的にモノローグの詩人だというのが、「センチメ
シン・現代詩レッスン88
白石かずこ「男根──スミコの誕生日のために」
スミコというのは、『不思議な国のアリス』を翻訳した矢川澄子。当時の白石かずこの遊び友達であり、澁澤龍彦の暴露本を書いた人。
矢川澄子は神のように澁澤龍彦を崇めて、有名芸術家との交遊もあったのだが、その中の一人として白石かずこがいたのだと思う。澁澤龍彦と別れた後の詩であるようだ。これも身体的な話で、白石かずこの中の男根は恐れる必要はない欲望の一つで(
シン・現代詩レッスン87
白石かずこ「バス停」
これもなかなか面白い詩だ。(アラブ)砂漠のバス停を詠んだそうなのだが、ふと日本のバス停のように現れるそれは記憶の場所としての幻想のバス停なのだ。それが蜃気楼のように感じられる。
一字空けの空白は空虚感のような雰囲気か。たどたどしい書き言葉。それがリズムとなっているのかもしれなかった。バスという乗り物は電車よりミステリー感が強いのは、普段乗り慣れていないとどこに連れて行かれ
シン・現代詩レッスン86
白石かずこ「雨季・または脱出の試み」
今日も手元に読めそうな詩は白石かずこしかないので続きである。本当は文字で書かれた白石かずこはクリープのないコーヒーだった(クリープなんて古風な死語になりつつあるのか?)。今は最初からカフェラテか?
まだまだ現役だった。遠藤周作のCMを探したのだがそっちは見つからない。
「雨季」は日本の季節感を言っているのだが、それが日本そのものとなっていく状態か?土地の
シン・現代詩レッスン85
白石かずこ「中国のユリシーズ」
昨日の続きで白石かずこ。白石かずこがなお今、現代詩で重要な詩人として読まれ続けているのは、昨日、中国映画を観てちょっと感じるところがあった。
ちなみにYouTubeでこの詩を朗読する様子も上がっているがそっちは喜劇かと思ってしまった。
「顔がなかった」という詩的言語。それは中国の人民服を着た当時の全体主義かもしれないが、今の中国や日本にも言えることかもしれない
シン・現代詩レッスン84
白石かずこ「Now is the time」
『現代詩手帖2024年10月号』は、「特集 シュルレアリスム宣言100周年」ということで借りたのだが、同時に「特集 白石かずこ、果てなき詩の航海」で白石かずこについて多少知ることになった。それまで知らなかったわけではなく、むしろ詩人としては有名で特にジャズ・ミュージシャンとの即興詩のポエトリーリーディングで有名だった。それはアメリカの偉大な詩人アレン
戦中派酔っぱらい親父の詩
『新選 田村隆一詩集』(新選現代詩文庫)
田村隆一『栗の木』
今日から田村隆一をやろうと詩集を借りてきたのだがいまいち好みがちがうような気がする。鮎川信夫に感化されすぎたか?なんか軽いのだ。それが持ち味なのかもしれない。
全く噛み合ってないディス・コミュニケーションの詩なのだろうか?いきなりジョージ・オーウェルの『一九八四年』はいいとしても、なんで「栗の木」なんて出てきただろうか?そうか?「
シン・現代詩レッスン83
田村隆一「帰途」
解説で大江健三郎が田村隆一の詩を解説しているのだが。韻文を散文化することに対して詩の読み方としては良くないと言っているのだが、田村隆一の詩を理解する方法であるのだから続けていく。もう作品として投げ出してしまえば読者のもので、作者の意図通りではなくともいいと思うのだ。そういう誤読も含めて詩が広がっていくのは詩のためにもいいことだろう。まあ諌めの言葉として田村隆一の詩もあげておくか
シン・現代詩レッスン82
田村隆一「緑の思想」(1967年)
わからないとしながらも進めなくては仕方がない。こうして筆記することで少しは理解できるのか?
「緑の思想」ってなんだろうと?と思う。緑の党と関係してくるのか?エコロジー的なものを言っているのかもしれない。「血のリズム」とか「心凍る詩のリズム」とかそっちのほうが「本質的に邪悪なもの」に感じてしまう。少なくとも田村隆一はリズム好き。それは音韻のリズムだろうか?奴隷
シン・現代詩レッスン81
田村隆一「栗の木」
今日から田村隆一をやろうと詩集を借りてきたのだがいまいち好みがちがうような気がする。鮎川信夫に感化されすぎたか?なんか軽いのだ。それが持ち味なのかもしれない。
全く噛み合ってないディス・コミュニケーションの詩なのだろうか?いきなりジョージ・オーウェルの『一九八四年』はいいとしても、なんで「栗の木」なんて出てきただろうか?そうか?「栗の木カフェ」でカフェの名前を決めているのだ