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シン・現代詩レッスン86

白石かずこ「雨季・または脱出の試み」

今日も手元に読めそうな詩は白石かずこしかないので続きである。本当は文字で書かれた白石かずこはクリープのないコーヒーだった(クリープなんて古風な死語になりつつあるのか?)。今は最初からカフェラテか?

まだまだ現役だった。遠藤周作のCMを探したのだがそっちは見つからない。

雨季・または脱出の試み

でたり はいったり
雨季を
わたしたち もつ
これは トツゼンに
非常に 緩慢に
だが おそるべき忍耐強さで
淫靡に わたしたちの日常に侵入し
侵食しはじめる
雨季とは

白石かずこ「雨季・または脱出の試み」

「雨季」は日本の季節感を言っているのだが、それが日本そのものとなっていく状態か?土地の地霊と言ってもいいものか?和辻哲朗なら「風土」というのかもしれない。白石かずこはカナダ生まれということで、そういう風土が苦手なようなのだが。

雨季に宣戦布告する
いいかえれば
わたしは 顔のパンティをとりかえる
わたしの顔はすでにパンティなのだ
それを とりかえようが
捨てようが 顔としては知ったことではない
(略)
BPで黒いバナナたちが
雨季のタケノコとなって繁盛する
BPSの ビイレッジに集まる黒いバナナは
もはやバナナでない 一個の人格だ
(略)
男と女は雨季を でるか
はっきり はいるしかない

白石かずこ「雨季・または脱出の試み」

白石かずこ調は「顔のパンティ」に現れてくる。それが越中褌では様にならないというか、キョンシーだよな。

黒いバナナは黒人のそれだが虚子は食べずに投げ捨てるだろうか?まあ、ここでは安ホテルにはいることになるのだが。雨季だから。

雨季をでたり はいったりする
というのも
それは わたし自身
わたしに 入ったり
出たりすることなのだ
わたしにして
わたしの関知しない コスモス 絶対他者である いれもの・・・・
 なら
わたしは キャベツのように
この容器にうづくまり
(略)
わたしの中で
快くなるあれよ こうして非常にさみしくなる不可避の快
 癒に
むかう雨季の誕生を
わたしたち ない網膜にみるのである

白石かずこ「雨季・または脱出の試み」

上手いというか芸風が出来ているよな。だから日本でも長生き出来た詩人なのかもしれない。そこらへんの観念で書いている詩人とはわけが違う。体感型ともいうのか、やっぱライブ感なのだろう。「雨季」という捉え方が大陸型で日本の「梅雨」という捉え方とは違うという。ジメジメしてないという。なるほど。

シャワーのあとに

血だらけになった姉さんとシャワーを浴びる
スッポンポンの人間同士だから照れは必要ない
バブルにまみれて 汚れを落として 水で流せば
お互いに一心同体という入れ物?
馬鹿だね 入れ物はわたしだけで十分で
お前は  男根いれるもの なんだよ
でも わたしに入れるのは厳禁だから
わたしはお前の巫女なんだから 処女のままなのさ
そう言ってサラダボールで
キャベツを刻んだりして
サラダを用意するのだ

肉は入ってないから と姉さんは言った

やどかりの詩

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