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シン・現代詩レッスン88
白石かずこ「男根──スミコの誕生日のために」
スミコというのは、『不思議な国のアリス』を翻訳した矢川澄子。当時の白石かずこの遊び友達であり、澁澤龍彦の暴露本を書いた人。
矢川澄子は神のように澁澤龍彦を崇めて、有名芸術家との交遊もあったのだが、その中の一人として白石かずこがいたのだと思う。澁澤龍彦と別れた後の詩であるようだ。これも身体的な話で、白石かずこの中の男根は恐れる必要はない欲望の一つで(白石かずこがそういう性格だった?)でも、矢川澄子はその男根に蹂躙されたと思っているのだ。これはこころの問題(個人的な問題)なので当事者たちしかわからないのだが、レイプされた(法的にはレイプではないのだけど本人は辛い体験だったと)経験者によるとなかなか辛い話のようである。
白石かずこが矢川澄子を慰める詩なのか?
男根──スミコの誕生日のために
神は なくてもある
また 彼はユーモラスである ので
ある種の人間に似ている
このたびは
巨大な 男根を連れて わたしの夢の地平線
の上を
ピクニックにやってきたのだ
ときに
スミコの誕生日に何もやらなかったことは
悔やまれる
せめて 神の連れてきた 男根の種子を
電話線のむこうにいる スミコの
細く ちいさな かわいい声に
おくりこみたい
許せよ スミコ
白石かずこの巫女性が神の問題に触れるのか突然、神という話題から。神というのは象徴で妄想なのかもしれない。それは人間に似ているというのは、人間の似姿に神を作ったからなのか、神が人間をそのように作ったからなのか?例えばイエス・キリストは救世主であるが神ではない。神の代理ということだろうか?キリストが救世主という意味なのだそうだ。遠藤周作の本で読んだのか?イエスが人間の名前で、それも言葉の意味で暗示していると思うのだがノー・キリストだったら神はいなかっただろう。
そうした似姿として矢川澄子の中に現れた神は、澁澤龍彦なのだろうと思う。そう読んでしまう。「ピクニック」という言葉は当時のパーティーか何かで「ピクニック」趣味とかは乱交パーティーのようなものを想像する(ビートニックの時代なのだ、マリファナ・パーティーとか)。
神というのはとにかく不在で
かわりに 借金や 男根だけをおいて
どこかにでかける とみえ
いま
神に おき忘れた男根が
歩いてくる こちらの方へ
それは若く陽気で
巧まない自信にみちている ので
かえって 老練な微笑の影に似る
顔のない男根というものなのか?男根が顔なのか?ゼウスがダナエの身体に入った神話も連想される。モダニズムのアーサー・ウェイリーが翻訳した『源氏物語』の日本版の表紙がクリムトの「ダナエ」の絵だ。そこにモダニズムの芸術至上主義があるのかもしれない。
男根は 無数に生え
無数に 歩いてくるようだが
実は 単数であり 孤りであるいてくるのだ
どの地平線からみても
いちおうに 顔も ことばもなく
そのようなものを スミコ
あなたの誕生日にあげたい
すっぽりと あなたの存在にかぶせ すると
あなたに あなた自身が みえなくなり
特に あなたが 男根という意志そのもの
になり
はてもなく さまようのを
ぼうようと 抱きとめてあげたいと思う
矢川澄子と白石かずこはシスターフッド的な関係だったのか。
両性具有
両性具有の夢
ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」
ギリシヤではアンドロギュノス(名前が怪獣だ)
日本のアマテラスも両性具有とされている
そしてぼくは現代の両性具有となって姉さんと合体した
最強の両性具有は人類の敵か?
天敵の神様は嫉妬するから
姉さんを切り離そうとする
ぼくは残された片側