シン・現代詩レッスン89
北村太郎「眠りの祈り」
谷川俊太郎氏が亡くなった。それほど思い入れはないのだが、過去に何回か取り上げた記事があったので追悼のためにあげておく。
改めて『新選 北村太郎詩集』から北村太郎「眠りの祈り」。センチメンタル・ジャーニー」が載っていないから最近の作品なのか?鮎川信夫のエッセイが出ているのだが「センチメンタル・ジャーニー」をやっぱ賞めている。全体的にモノローグの詩人だというのが、「センチメンタル・ジャーニー」は他者に問いかけているということか?過去にやったかな?
北村太郎のイメージはTVドラマ『荒地の恋』で田村隆一の妻と浮気する詩人というイメージで、鮎川信夫とかの硬派のイメージから比べて軟弱な詩人のイメージがついてしまったのだが、こうして『新選 北村太郎詩集』を読む限りは死のモチーフで観念的なモノローグ詩が多い気がする。鮎川信夫は比較的にわかりやすい詩を書くと書いているのだが時代性の違いもあるのか、観念的な詩のような気がする。
1976年だから五十過ぎの作品だった。それでこんな観念的な詩を書くのか?と思ったが最初だけで、二行づつその日に起きたことを祈りのように詩で書いているというスタイルである。猫がいるのはいいな。猫を飼ったことがあったが外から獲物を取ってきて見せにくるんだよな。最初は石とか蟋蟀みたいな可愛いものだったのに、魚とか鳥の死体とか、モグラを捕まえて来た時は掃除機の中に入ってしまい、取ろうにも取れなかった想い出があった。でも猫がいたから餌を上げるために頑張れた時期もあった。猫って嗜好性が強いので一度贅沢させるとその缶詰しか食べなくなる。よく飼えたと思うが途中から母に預けてしまったんだ。
切れがない感じが散文っぽいかな。だらだらとした観念という感じだろうか。でもまだ体力的に階段を二段ずつ駆け上ったり出来るのだ。蛇行する川は岡崎京子『リバーズ・エッジ』を連想するというか川崎側から東京のセレブの街のきらめきとか見ているのかもしれない。
二十歳ぐらいのときこんな感じだったのかな。三十ぐらいまでか?それから平凡な家庭を夢見たけど無理だった。観念的すぎたのかもしれない。そうだ、あまりにも観念的になって幻想が見えたり声が聞こえてきたりしたものだ。でもあの頃は祈らなかったな。今の方が祈るかもしれない。詩人は祈る人なのかもしれない。