戦中派酔っぱらい親父の詩
『新選 田村隆一詩集』(新選現代詩文庫)
田村隆一『栗の木』
今日から田村隆一をやろうと詩集を借りてきたのだがいまいち好みがちがうような気がする。鮎川信夫に感化されすぎたか?なんか軽いのだ。それが持ち味なのかもしれない。
全く噛み合ってないディス・コミュニケーションの詩なのだろうか?いきなりジョージ・オーウェルの『一九八四年』はいいとしても、なんで「栗の木」なんて出てきただろうか?そうか?「栗の木カフェ」でカフェの名前を決めているのだと知る。
そしてグレアム・グリーンのスパイ小説だった。どっちでもいい話というか店の名前なんかどうでもいい話のように思えるし、当事者なら重要なことなのだろう。その了解は二人の間には出来ている。ただそこに読者は含まれているのだろうか?
「『ローランの歌』の研究者Dがいいな」はグレアム・グリーンの『密使』に登場する『ローランの歌』の研究者Dということだった。本を読んでない人はさっぱりわからん。ただ『ローランの歌』が叙事詩で著者が重要だと思っていることなんだろう。
当事者同士なら論争になるが部外者は置いてけぼりである。DからDAYという妥協案は男(作者)の言い分が半分は通ったような感じを受ける(読みは同じなのだから)。それがバーの店の名前ということは他愛もないおしゃべりということなのか?深い意味は無くなったという感じか?
前のスタンザはこのラストを言うためのものだったのか?つまり彼女との想い出を回想しているのだが、熱い議論はセックスの欲望のように感じるのは、「栗の花の匂い」だろうか?想い出は痛い栗の実となっている。
田村隆一「緑の思想」(1967年)
わからないとしながらも進めなくては仕方がない。こうして筆記することで少しは理解できるのか?
「緑の思想」ってなんだろうと?と思う。緑の党と関係してくるのか?エコロジー的なものを言っているのかもしれない。「血のリズム」とか「心凍る詩のリズム」とかそっちのほうが「本質的に邪悪なもの」に感じてしまう。少なくとも田村隆一はリズム好き。それは音韻のリズムだろうか?奴隷のリズムと言った(小野十三は「奴隷の旋律」だった)。
田村隆一が定型詩に憧れ斎藤茂吉をリスペクトするのは、そういうことかもしれない。血のリズムって、戦争体験のことなのか?そういう人にとってエコロジーは胡散臭いのだと思う。確かにエコロジーにまつわる運動、SDGsとかは胡散臭いような気がする。欲望の側に立ってきた人間の思想が、それを抑制せよと言ったところでご都合主義は免れんだろう。エコロジーのための開発とか原子力推進とか「本質的に邪悪なもの」かもしれない。
このへんになると保守親父の酔っ払いだな。特権という弱者批判。維新の会みたいだ。次のスタンザは砂漠の都市ドバイのような。ドバイはやり過ぎだよな。石油産油国だから出来ることだった。
次は戦中派の欲望論みたいだ。愛撫しなくても滅びることは出来る。すでにそういう欲望主義が嫌になっているのだ。酔っ払いの説教かよと思ってしまう。
でたよ。親父の正義論が。
資本主義と植民地主義みたいなことを言うな。戦中派のたわごとのように聞こえる。
有限性を言っているのか。そこで死滅するのが地球のためになると言っているのか?
鳩になったり蛇になったり大変だ。もう酔っぱらいの戯言にしか思えない。
先ほど死者の感情移入を否定した側から生者の感情移入をしている。どちらもファンタジーの美の世界だった。
最初のスタンザはもろファンタジーだ。詩人だからファンタジーを唱えるのはお手の物と見える。
他人の眼よりも自身の老眼を心配したほうがいい乱視もはいっているかも。乱視者がかつては詩人と呼ばれたからな。もうそんな詩人の言葉にもふりむかない時代なのかもしれない。
田村隆一「帰途」
解説で大江健三郎が田村隆一の詩を解説しているのだが。韻文を散文化することに対して詩の読み方としては良くないと言っているのだが、田村隆一の詩を理解する方法であるのだから続けていく。もう作品として投げ出してしまえば読者のもので、作者の意図通りではなくともいいと思うのだ。そういう誤読も含めて詩が広がっていくのは詩のためにもいいことだろう。まあ諌めの言葉として田村隆一の詩もあげておくか?
そういうことだ。まあウィスキーの飲み方も人それぞれだと思うが。ハイボールでと言ったら怒られるか?それと解説の詩が本文のほうに掲載されてないので全体かどうかわからなかった。大江健三郎の解説は丁寧なのだが。
「言葉なんておぼえるんじゃなかった」すごい逆説を言っているのだと思うが、そういして詩を書いているのだから言葉を必要としているのだろう。大江健三郎は意味よりもその最初の口語がもたらすリズムについてそれが成功しているという。「言葉のない世界」を望んでいるのだが、何か痛い経験でもしたのか(田村隆一なら酔っぱらいの失言というのがありそうだ)。もう次のセンテンスなんて無理難題をふっかけているな。それは自分で言葉を発しないでいればいいということにならないか。少なくとも活字化されるところはいかんぜよ。自ら詩人であることを選んだのだから、そんな言い訳は酔っ払いの戯言にしか聞こえない。大江健三郎は言葉が関係性をもたらすものであるから、それをただ観察者のような立場でいられるの赤ん坊か動物であるに過ぎない。そして詩はそのように続く。
批評されるのを恐れているのか?鳥人間になって苦労すればいいと思う。
当たり前のことを言っているのか?人は言葉を話す。人は人のなかで言葉を話す。でも鳥が全く言葉をしゃべらないのではなく。鳴き方によってコミュニケーションは取っているのだ。
むしろ言葉がないほうが復讐されたり、血を流したりするのじゃないのか?それはぼくには無関係だということは出来るけど当事者にならないとも限らない。大江健三郎も詩人が日本語とほんの少し外国語を覚えたのは矛盾すると書いている。そういう人間だったと。詩人は自らを関係づけて生き続けるしかないのであって、涙とか血とかいう幻想の中に縛られていても仕方がないという。しかしこれをユマニストの卑しさ、ヒューマニスティクな詩とはどういうことだろう。こういう弱音がむしろ人間らしいということか。
ここはほとんど逆説を言っているな。涙や血を望んでいる詩人だった。大江健三郎は詩と自身の散文化で繋がっていると書く。それは田村隆一自身とは直接は関係ないところで詩の言葉に触媒作用を起こしているだけだと書く。触媒作用は(インスパイアーということか)孤独だという。詩のヒーローはどこに「帰途」するのだろう。大江健三郎は詩人が自殺するようにも想像する(これはわからん)。しかし再び意味の世界に戻って来るという。いったん言葉を覚えたならば蜘蛛の巣のように囚われていく人間だという。世界から無造作に立ち去ることは出来ないのだ。詩人は生き続け言葉を浪費していく。その緊張感に雄々しさを感じるという。そして詩人は埋葬されるために横になることをしないという。
強がりばかり言ってないで横になりたきゃなればいいのだ。それをわざわざ言葉にするから何かを言われてしまうと思う。
その前に読んだ鮎川信夫に感化されすぎたか、いまひとつ合わなかった。戦中派酔っ払い親父のようで思想的にもだめだった。逆説的な詩が多いと思う。本心がどこにあるのかはかり知れない。解説で大江健三郎が書いていたエッセイで酔っ払って殴り合いの喧嘩をしたという解説がおもしろかった(大江健三郎のアル中時代か?)大江健三郎とは思想的には合わないと思うが詩人としてはフォローしていた。