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シン・現代詩レッスン81

田村隆一「栗の木」

今日から田村隆一をやろうと詩集を借りてきたのだがいまいち好みがちがうような気がする。鮎川信夫に感化されすぎたか?なんか軽いのだ。それが持ち味なのかもしれない。

栗の木

そのとき
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んだばかりの彼女が云った。
「お店の名前は栗の木がいいわ」
ぼくはグレアム・グリーンのスパイ小説『密使』に夢中になっていた。
「いや Dデイ がいいよ 反革命と戦うために
石炭を買いにうイギリスに渡る
『ローランの歌』の研究者Dがいいな」

全く噛み合ってないディス・コミュニケーションの詩なのだろうか?いきなりジョージ・オーウェルの『一九八四年』はいいとしても、なんで「栗の木」なんて出てきただろうか?そうか?「栗の木カフェ」でカフェの名前を決めているのだと知る。

そしてグレアム・グリーンのスパイ小説だった。どっちでもいい話というか店の名前なんかどうでもいい話のように思えるし、当事者なら重要なことなのだろう。その了解は二人の間には出来ている。ただそこに読者は含まれているのだろうか?

「『ローランの歌』の研究者Dがいいな」はグレアム・グリーンの『密使』に登場する『ローランの歌』の研究者Dということだった。本を読んでない人はさっぱりわからん。ただ『ローランの歌』が叙事詩で著者が重要だと思っていることなんだろう。

ちいさな論争のあげく
DからDAY デイ ということになった

DAYが銀座裏の 酒場 バーの名前である
小説の題名でもなければ 孤独な中年男の 頭文字 イニシャルでもない

当事者同士なら論争になるが部外者は置いてけぼりである。DからDAYという妥協案は男(作者)の言い分が半分は通ったような感じを受ける(読みは同じなのだから)。それがバーの店の名前ということは他愛もないおしゃべりということなのか?深い意味は無くなったという感じか?

「そのとき」から七年たった
むろん、彼女もDAYもぼくの夢から消えてしまっている
四十歳の夢にあらわれるのは
十月の一本の栗の実 あの
六月の栗の花の匂いだ

前のスタンザはこのラストを言うためのものだったのか?つまり彼女との想い出を回想しているのだが、熱い議論はセックスの欲望のように感じるのは、「栗の花の匂い」だろうか?想い出は痛い栗の実となっている。

かた焼きそば

ジョージ・オーウェルの『一九八四年』をどんなに力説しようと彼女には馬の耳に念仏だった。「ウィザードリィ」の暗闇を探るようなものだった。彼女は言う。「ウィザードリィ」に夢中になっているのはあんただけでその間あたしが何をしていると思っているの」

ぐうの言葉も出なかった。だからと言って「かた焼きそば」はないだろう。
せっかくうどん専門店に入って食事をしているのに。
かた焼きそばなんて美味しいと思ったことがなかったというかあれは食事なのか。スナックみたいなもんだろうと思う。

すでに一九八四年は過去になっていたのだ。「かた焼きそば」の抗議だったんだろうか。彼女とのディコミュニケーションをうどんをすすりながら思い出す。

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