シン・現代詩レッスン84
白石かずこ「Now is the time」
『現代詩手帖2024年10月号』は、「特集 シュルレアリスム宣言100周年」ということで借りたのだが、同時に「特集 白石かずこ、果てなき詩の航海」で白石かずこについて多少知ることになった。それまで知らなかったわけではなく、むしろ詩人としては有名で特にジャズ・ミュージシャンとの即興詩のポエトリーリーディングで有名だった。それはアメリカの偉大な詩人アレン・ギンズバーグの影響で彼とのツーショットの写真どころか、日本へ招いたのが彼女だった。さらに共演もしていた。
生きる伝説であった当時、行こうと思えば行けたのかもしれない。
しかし彼女の詩にはまったく興味がわかなかった。それはエッセイで彼女が「メイク・ラブ」を強調していたせいかもしれない。「メイク・ラブ」は「即セックス」ということだ。眼と眼が合った瞬間に、セックスするということ。それは詩人のポーズだったのだろうか?誰でも気に入れば愛する。しかしそれ意外は無視するのかもしれない。彼女はマドンナ的存在だったのかもしれない。現代詩人のマドンナ。むしろ彼女には巫女の方がふさわしかったかもしれないのに、処女ではなかった。そういう処女性にこだわる男根中心主義に反発したのだという。
「Now is the time」で連想するのはパーカーの名曲「Now's The Time」だ。
オーストン氏はパーカーかも知れなかった(パーカーに刺激を受けた若者だった)。白石かずこがこんな詩を書いていたなんて知らなかった。それを朗読していたのだ。
イメージ的にはビッチな女なのだが、それは「空腹感」という共通言語を持っていたのだ。いまだと感じることが出来るのにあの頃はそんな「空腹感」なんてなかったのかもしれない。白石かずこの「メイク・ラブ」は愛の変奏なのだが、そこに気づくことはなかった。
マザコン男の戯言なのかもしれないが、母に対する愛はあった。
「世界はからっぽのレストランだ」は言いえて妙な詩的言語だと思う。
今の生活とまったく同じだ。ただSICKは悪徳だとは思わないだけかもしれない。
これは彼の妄想だろうか?最初にダンスに断られた男なのだから、そういう時代が来ることを夢見ているのかもしれない。エンジンはそういう欲望の喩えだろうか?
五十年たったら2000年代だった。その頃も彼は唄っていただろうか。その前は生まれてもいない。今しかないというアジテーションなのか。そういうオーストン氏への讃歌のようでもある。
これは表現者の讃歌になっているのか。レストランは空っぽだったはず。そのレストランを満たそうと唄っている黒人の若者。そしてそんな時を忘れて人々は若者に導かれて時と出会う(結婚)。