ゆき丸

一応の専門はゲーム理論。Ariel Rubinstein教授(テルアビブ大学、NY大学)から直接の許可のもと、ゲーム理論関連の翻訳、その他、現代音楽、平安鎌倉文学、明治期近代文学、ちょっとだけ現代詩。

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一応の専門はゲーム理論。Ariel Rubinstein教授(テルアビブ大学、NY大学)から直接の許可のもと、ゲーム理論関連の翻訳、その他、現代音楽、平安鎌倉文学、明治期近代文学、ちょっとだけ現代詩。

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  • 吉原幸子

    端正な傷口

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    平家にあらずんば

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    言葉のない世界

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フェルマーの最終定理とひとりの日本人数学者

「3以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない(n は指数)」 読むのは3秒だが、このフェルマーの最終定理が証明されるには300年以上かかった。足掛け8年、イギリスの数学者、アンドリュー・ワイルズが証明したが、ワイルズによれば、その証明には2人の日本人数学者、志村と谷山による先行研究のひとつ「志村-谷山予想」を解くことが必要不可欠だったという。 谷山豊は高校の卒業生であることはかねてから知っていたが、数学が苦手

    • 吉増剛造の「銀河」に打たれる

      詩人、吉増剛造さんの1973年刊行の詩集「王國」より「銀河」と題された一篇。 男がシャツを洗濯している。彼は宇宙について考えながら、金属光沢のある細かく美しい織物を洗っている。音楽が流れている。藻草が水槽の底にゆらめき、指が水中に曲線を描いて木目をつくる。ああ、大昔宇宙の熱気が人体に作用して指は凍傷にかかってしまった。もはや船のように曲線をえがき髪なびかせて宇宙を駆けめぐることはない。月曜日にも水曜日にも沐浴する。月曜日にも水曜日にも沐浴する。晩秋、家の前に南天の赤い実がな

      • 神聖な愛のカタチ

        詩人、吉原幸子は「愛」と題された小さな一篇を書いている。 海  その底に 藻をぬって 白い魚がゆれてる 森  その底を 土ふんで 黒いけものがさまよふ 魚たち けものたち なんてなつかしいところにゐるのだらう 空気も水も さわやかでおいしいのだ この世は わたしは 森 わたしは 海 わたしは 世界にみちる青い霧 わたしは わたしの青い墓 わたしは みんなの青い墓 みんなをつつんで そしてもうだれも死なない (1976年) 自然界は人間界だけではなく動物界と植物界と

        • 死と生と、「復活」

          詩集「昼顔」に収められた1篇「復活」、ここで詩人は生きるために愛を殺すと言い、これはあくまで自衛だと、自らに向けたぴすとるにたいして正当防衛を主張する。 独房に収監されたのち、やがては燃えるような死と生が待っているかもしれないと希望を託す。磔刑に処されたキリストのゴルゴダの奇跡が念頭にあったのだろうか。詩人は明らかに死後の復活、新しい死と生を描いている。 死ぬまいとして愛を殺す これは自衛だ あなたに向けたぴすとるは わたしの心を狙っている 罪の熱さと 罰の冷たさで わた

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        フェルマーの最終定理とひとりの日本人数学者

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          「たましひの薄衣」

          菅原百合絵さんの第一歌集「たましひの薄衣」を読む(現代歌人集会賞、現代短歌新人賞をそれぞれ受賞)。 目には閉ざされた不可視の心情や他者、決して見ることのない失われてしまったイメージが、一転彼方からこの現実の具体的な対象に向かっていき、同化されていくようだった。この両極は、それぞれの歌のなかで危うい均衡を保とうとしているかにみえた。均衡 (equibrium)とは、2つの力が充実してすっかり安定していることではなく、ある1点において達成されるや、互いが動いているために、すぐに

          「たましひの薄衣」

          「通過 Ⅵ」

          Ⅰから番号が振られた吉原幸子の詩篇「通過」、そのⅥをあらためて読む。 わたしから こころが溢れる たぶん 小さくなったために 大きなものがもてるのだ 詩人は小さくなった自分をはっきりと受け入れている。それはハンディではなく、むしろアドバンテージだった。 そして、うたふ必要がなくなったと言う。うたふことは詩人にとって、 薬を塗る作業だったのか 傷をかきむしる作業だったのか そう内省しては、小さくなったいまではそれはもう必要ないとする。ここにも確かな肯定があるようにみえ

          「通過 Ⅵ」

          みの虫の詩人

          煤けた枯れ葉だと思って近づくと、退屈そうにしているみの虫だった。 古来から人はすべての虫は歌うのだと考えていた。確かに、虫たちの歌声は生存と自然の所在を、高らかに、儚げに、歌い上げる。でもまさか、みの虫が歌うはずはない。 かつてある寡作の詩人はこんなことを言った。 蓑虫が歌をうたわないのは、彼がほんとうの詩人だからだ。本当の詩を知る深いものは、詩なんてつくろうとしない。声に出してよみ、白紙に書きつけたとたん、自分の内部がやせていってしまう。だから本当の詩人は沈黙するほか

          みの虫の詩人

          泣菫の詩を読んで

          薄田泣菫を初めて知ったのは、帝国図書館でたった一度だけ見かけた一葉の肖像についての追憶だった。幻のような一瞬の凛の姿が現前するかの描写で、その後「茶話」などの随筆を読むに、その文章は平明流麗でありながら、やはり対象の一面を描くことにかけては隅々まで端正、うっとりするような文章だった。晩年はパーキンソン症候群に罹り、ずば抜けた能書家なるも震えのために筆が握れず、口述筆記だというのだから驚く。しかしそんな皮相な素振りは一向に見せず、どこまでも明るく礼儀正しく、最後に名残惜しく優し

          泣菫の詩を読んで

          朔太郎の自転車日記

          朔太郎の様々な詩を読むに、言い知れぬ恐怖のようなものを感じていた。単なる空想や想像ではない、朔太郎が現実に生き、そして見たいわば実景が、詩人のもつ憤怒、絶望、孤独、そして悲しみや激情といった感情によって、何か別のものに溶けていくかに感じるからだ。「感情が私の生命のすべてである」と朔太郎はいうが、しかし抒情とも哀傷とも片づけられない戦慄の震えがあるように思っていた。常識と通俗から「そうである」と思っていたものがそうではなかったと知ったときほど身震いするものはない。そうして朔太郎

          朔太郎の自転車日記

          シンメトリーの古典美

          「雪」 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 「青空」(1927年)より 朔太郎門下だった三好達治のこの一篇、たった二行だけなのに衝撃を受けた。ここでの太郎/次郎とは一般的な男性の人称だが、ここには子供であろう太郎と次郎をあたかも雪がしんしんと降り積もって寝かしつけている静けさがすぐに見えてくる。改行することで、二人は兄弟ではなく、隣家の別の子であることも想像できる。ぐっすり眠る子供らの純粋さと屋根に積もる雪の純白さとが重なって

          シンメトリーの古典美

          短歌の子供たち

          短歌をさまざまに捲っているうちに、子供らを扱った印象的なものにいくつか出会った。それらはいずれも命の象徴として現れていた。 鳴く蝉を手握りもちてその頭をりをり見つつ童走せ来る ---窪田空穂 眩しい夏のことだろう、戦利品さながら蝉を生け捕った子供が嬉々として走ってくる。しかし手に握った蝉をときどき見ながらとあるのは、あるいは蝉を握り潰してはいけないと、生きているかどうか確認しているに違いない。もし死なせてしまったら、大人に自慢できないとは私は解釈できない。命を手中にしなが

          短歌の子供たち

          西に寂光院につながった晶子の二首

          (自分は一切の詩心がないために、また一葉の死後にその床しさを非難したこともあって)晶子があまり好きになれなかった。しかしいくつもの短歌を読んでいると、なぜか急にしみじみと心に沁みるものがあった。 春ゆふべそぼふる雨の大原や花に狐の睡る寂光院 「小扇」 春の夕にしとしと雨が降っている。それでも咲いている桜のしたを見やると、一匹の狐がうとうとしている。えもいわれぬ大原寂光院。 単にその景色を写生しているのではなく、晶子の眼がとらえ、心に映ったものが実に幻想的/美的にうたわれ

          西に寂光院につながった晶子の二首

          「文字禍」

          「山月記」「李陵」を始め、「弟子」「名人伝」などで知られる中島敦。硬質で簡勁な文体は、書かれた内容と見事に調和する。明治の終わりから大正昭和初期を生き、その時代、個の自立と国家の相克、そして教養が大衆化していくなかにあって、中島作品の通奏低音は自己憐憫であり、それは自我の発見という問題でもあった。しかし自我の目覚めには他者の存在が必要不可欠である。中島の作品にはこうした他者とのかかわりのなかで苦悩する自我が登場するが、しかし作家は必ずしも救いの手を差し伸べていない。むしろ、社

          「文字禍」

          われに触るるな

          卓上の逆光線にころがして   卵と遊ぶわれに触るるな ---築地正子 歌詠み、歌つくりとは孤独な行為なのだろうか。潔癖とも傲岸ともとれるこの歌には、しかし殻にこもる自閉は感じられず、むしろ外の世界と卵をつなぐ逆光線が、「われ」を照らし出しているようにみえる。高潔にて、触れたくとも触れられぬ「われ」が、卵を指でもてあそぶとは、いかにも高貴で象徴的、一枚の絵画のように目に浮かんでくる。

          われに触るるな

          ちょっとだけジョイス

          ジョイスの短編 "Eveline" (1904), 19歳の主人公 Eveline が家を飛び出そうと決心する場面だが、比較的容易な英文にもかかわらず、一筋縄ではいかなかった。時制は過去形で、過去の事実を述べているが、しかしその過去の Eveline がそのまた過去を回想しており、同じ過去形でも2つの時間が流れている。文中の太字の again の解釈はかなり難解だった。少し長いが引用してみたい。 She continued to sit by the window, lea

          ちょっとだけジョイス

          命の灯り

          詩人、吉原幸子の一篇「通過Ⅳ」 山の 高いところに ぽつんと一つ 灯がついてゐるのは 人が あそこにもゐるのだ 泣いたり 笑ったりして 幸せは罪ではない これを読んで心の蓋がポッと開いた気がした。都心の真ん中で退屈な日常を暮らしていると、気づきようもなかった命の灯り。無数の涙とたくさんの笑顔、それは命そのものだ。 「幸せは罪ではない」とあるのは、詩人は幸せが有罪か無罪かの問いをもっていたのかもしれない。そしてここに、命という存在の最高裁無罪判定が下る。それを原罪にして