朔太郎の自転車日記
朔太郎の様々な詩を読むに、言い知れぬ恐怖のようなものを感じていた。単なる空想や想像ではない、朔太郎が現実に生き、そして見たいわば実景が、詩人のもつ憤怒、絶望、孤独、そして悲しみや激情といった感情によって、何か別のものに溶けていくかに感じるからだ。「感情が私の生命のすべてである」と朔太郎はいうが、しかし抒情とも哀傷とも片づけられない戦慄の震えがあるように思っていた。常識と通俗から「そうである」と思っていたものがそうではなかったと知ったときほど身震いするものはない。そうして朔太郎は実に近づきがたい詩人であった。
一方、朔太郎は「自転車日記」なるものを書いている。年譜によれば、1921年の暮れから翌年にかけて自転車を習うとあり、このときのことを綴ったものである。当時、朔太郎は35歳、第一詩集「月に吠える」ですでに名声を得ていた。が、たった6条しかないこの短い日記は、カナ交じりの文語で書かれているにもかかわらず、しみじみとしてユーモアがあって、自転車の習熟にもまして、関わった人々らがおかしみをもって描かれている。
自力ではすぐに失敗した自転車だが、弟を師匠と仰ぎ練習に励む。それでもなかなかうまく乗れずにいると、弟いわく「酔漢ノ漫歩」、鋭く厳しい自転車教師である。やがてうまく乗れるようになり、用もなく遠出をしてその爽快さと便利さを訴えるも、わけもなく遠出して汁粉二杯八銭を払うとは損でしかない、おまえは初等算術もできないのかと大笑いする父が登場する。そして最後に、耳の不自由な老婆を自転車で倒してしまい、平謝りするも激怒した老婆に許してもらえず、人だかりができ、さんざん恥ずかしい思いをしたとある。朔太郎に怒り心頭な老婆を思うとなんだか笑ってしまうが、日記はこれをもってふいに終わっている。
「竹」「笛」「かなしい囚人」「小出新道」など、あれら詩を命をかけて書いたあの朔太郎が、30代半ばで自転車をあくせくして覚え、怒られたり諫められたりしているのを知り、実に人間らしく微笑ましく思うも、しかしそこはやはり朔太郎、かえってカナ文語体の超俗的な異化効果もあって、事実が諧謔に溶明し、実景がその相貌を変えて読み手に迫ってくる短い日記であった。いやむしろ、日記の形式をとった、文語調の詩篇ではなかろうか。