「文字禍」
「山月記」「李陵」を始め、「弟子」「名人伝」などで知られる中島敦。硬質で簡勁な文体は、書かれた内容と見事に調和する。明治の終わりから大正昭和初期を生き、その時代、個の自立と国家の相克、そして教養が大衆化していくなかにあって、中島作品の通奏低音は自己憐憫であり、それは自我の発見という問題でもあった。しかし自我の目覚めには他者の存在が必要不可欠である。中島の作品にはこうした他者とのかかわりのなかで苦悩する自我が登場するが、しかし作家は必ずしも救いの手を差し伸べていない。むしろ、社会のなかでの自己の死と喪失を描いているかにみえる。
しかしそうはいっても中島の記述はところどころにユーモアがあり、苦悩する個の憐憫が単なる同情や安易な連帯に堕していない。これは「悟浄出世」「悟浄歎異」(沙悟浄を主人公にした西遊記物語である)に顕著だが、これは読み手の思考と知的好奇心、ひいては自己の在り方を揺さぶり、鋭く内省を促すものでもあろう。
そこで短編のひとつ「文字禍」。果たして文字の霊はいるのかどうか報告せよと、アッシリアの王が老博士に命じるが、文字を知ってバカになったとか、文字が分かって魚が釣れなくなったとか、それはどうやら文字の霊の仕業だと結論づける(ペシミスティックなデカダンスのなかにもこうしてユーモアが顔をのぞかせる)。そして地震によってついに博士は、書架から落ちた書籍(粘土に書かれた文字板)によって圧死してしまう。
小説に警句/教訓めいたことは禁物かもしれないが、しかし情報なる無意味な文字が毎日大量に量産されては毎秒事に白紙になっていくこの現代にあって、コロナ禍以上に筆禍文字禍の真っ只中のわたしたちに何をかいわんやである。そのうち、ともすれば文字の霊によって現代人は、博士同様滅んでしまうかもしれない。