見出し画像

フェルマーの最終定理とひとりの日本人数学者


「3以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない(n は指数)」

読むのは3秒だが、このフェルマーの最終定理が証明されるには300年以上かかった。足掛け8年、イギリスの数学者、アンドリュー・ワイルズが証明したが、ワイルズによれば、その証明には2人の日本人数学者、志村と谷山による先行研究のひとつ「志村-谷山予想」を解くことが必要不可欠だったという。

谷山とよは高校の卒業生であることはかねてから知っていたが、数学が苦手などころか常に目の上のタンコブとなっていた私は、それまでその生涯を調べることはなかった。数学なる洞窟は一度入ったら最後、もう二度と引き返せない世界に思え、その入り口のはるか手前でいつも引き返していた。しかし若き数学者、谷山はその洞窟へなんなく入り、ひとり難問に挑んでいった。

病弱で読書家だった谷山は数学のヴェールをめくる全き数学者のイメージそのものだ。彼らは私たちの知らない言葉を使い、ひそひそと話をし、そうして数学の難問は、いつか宇宙から使者が降りてきて解くものだと私たちは思っているが、谷山はそんな使者のひとりだった。

しかし谷山は苦悩の末、32歳でガス自殺を遂げる。婚約が決まり、プリンストン大学への渡航が決まった矢先のことだった。でもそれはきわめて人間らしい理由だった。「将来に自信がもてない」というのだ。

私はこれを知って少し安心した。世紀の天才とて私たちと何ら変わらぬ。夢を抱き、目標をさだめ、したたかに生活しながら、日々その実現に向かう。何度も挫折を繰り返し、苦悩を乗り越え、そして新たな問題に取り組んでいく。それは仕事や生活だったり、ときに人間関係だったりするが、努力ゆえの苦悩であることは同じである。ただ私たちは谷山が行き詰った問題を(数学的に)知り得ないというに過ぎない。

ともすれば駆け足にも見える短い生涯の、いかにも夭折の数学者だった谷山は、このあまりに人間らしい理由で旅立った。現在は学校の近くの寺に眠っているという。

しかしその業績がフェルマーの最終定理の解決に欠かせなかったことを知ったらどう思うだろう。それでも自信がもてず、苦悩するだろうか。それとも眼鏡越しに静かに目を光らせ、なんとも人間らしく、しかと頷くだろうか。





いいなと思ったら応援しよう!