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神聖な愛のカタチ
詩人、吉原幸子は「愛」と題された小さな一篇を書いている。
海 その底に 藻をぬって 白い魚がゆれてる
森 その底を 土ふんで 黒いけものがさまよふ
魚たち
けものたち
なんてなつかしいところにゐるのだらう
空気も水も さわやかでおいしいのだ この世は
わたしは 森
わたしは 海
わたしは 世界にみちる青い霧
わたしは わたしの青い墓
わたしは みんなの青い墓
みんなをつつんで そしてもうだれも死なない
(1976年)
自然界は人間界だけではなく動物界と植物界とから成り立っている。それら自然を追懐するようにうたわれているが、しかしそれは単なるノスタルジアや一方的な賛美ではなく、詩人みずからが海に土に魚にけものにと様々に同化していく過程のようである。やがて、青い霧となって広がり、その青が同じく保護色でもあろう青い墓となってすべてを包み込もうとする。詩人の愛のカタチであった。
吉原は「何度もバラを食べたことがある」という。その美しさ以上に「不安で、もっと深くつながりたくて」最後には食べることしかなかったという。いのちを食べるという行為は、ともすれば残酷で冒瀆なことだと言う人もいるが、しかし詩人はこれを神聖なことだと断じる。いのちをいのちと知りながら食べることを人類は選んできた。それは自然への礼儀であり、崇高なものだと。
こうして詩人の愛のカタチは、青い霧となって自然界すべてを飲み込み、そして食べていく、神聖なものだったのではなかろうか。