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プラトン、それが弁護士という仕事なんだよ…。

『ソクラテスの死』。

ジャック・ルイ・ダヴィッド作(1787年)

死刑宣告を受け、自ら毒をあおろうとするソクラテス。彼は今まさに、死のうとしている。

毒杯を手渡す人も含め、皆悲しみに打ちひしがれている。暗くて見えづらいかもしれないが。最後方に描かれている立ち去る人らは、ソクラテスの身内だそう。つらくて見ていられなかったのかも。

彼の妻は子どもを抱えながら泣いていた、とプラトンの『パイドン〜魂の不死について〜』に書かれている。


ソクラテスが摂取したと考えられている毒性の植物。

この植物の英語名はヘムロックで、米国の安楽死協会は「ヘムロック協会」だ。苦痛なく死にいたると信じられているのが、わかるだろう。前述したプラトンの著書にも、ソクラテスの死が安らであったことが描写されている。

一方、七転八倒の苦しみと解説する文献もある。現代の研究からも、これ系の毒は嘔吐・神経麻痺・呼吸困難を引き起こすことがわかっている。

当時、毒にケシを混ぜるという安楽死の方法が存在したそう。これが使われたか。真相はわからない。

この日のことでハッキリしていることは……

国外追放にしてくれと申し出ることは可能で・逃亡することも不可能ではなかった(協力者は大勢いた。絵の中で牢番さえ泣いている)ソクラテスが、そのどちらも選ばず、死刑を受け入れたということだ。


天を指す仕草は、(この後で解説する)『アテナイの学堂』のプラトンのそれと、偶然一致しているのではない。意味がある。

ソクラテスは、個人の事情よりも国家への義持を優先させるべきという思想を体現したーーだとか。ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言って死んでいったーーーだとか。

さんざん言われているが。

「悪法も法である」と彼が言った証拠はどこにもない上に、ソクラテスはどんな悪法にも黙って従うような人ではなかった。法に欠点があれば、それを批判していたのだから。

悪法であるとしても、それを暴力的に否定してはいけない。彼の信念はこうだった。

他方。法に従うことによって自分が死刑になること、それはそれでやむをえない。彼はこのようにも考えたのだろう。

死の直前かどうかはわからないが。最期にしたのは、悪法云々の話などではなかった。

目的のために勇気をもって戦場におもむいた、ギリシャ神話のアキレウスに自らを喩え、死など恐るるに値しないと言い放った。

これは単なる矛盾などではない。人間の非常に複雑な心理だ。

彼はそれ(哲学)に命をかけた。

ソクラテス(紀元前470年~紀元前399年)

『アテナイの学堂』。

ラファエロ作(1510年)

ソクラテスの弟子:プラトン
プラトンの弟子:アリストテレス

プラトン(紀元前427年~紀元前374年)
アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)

指先で天を示すプラトン。手のひらで地を示すアリストテレス。イデア論と、より現実的な哲学の、対比であると考えられている。

プラトンが抱えている本は『ティマイオス』。ラテン語に翻訳したキケロから「奇怪な内容で全く理解できなかった」と言われた(笑)、プラトンの著作。

アリストテレスが抱えている本は『ニコマコス倫理学』。幸福とは何か・幸福になるにはどうすればいいのかが書かれた、アリストテレスの著作。理性と感情のバランスをとることなどが推奨されている。

この、紀元前4世紀から言われている大切なことを達成できていない現代人は、少なくない。もちろん、ソクラテスのように壮大な意味ではなくだ。


Aアリストテレス・Bプラトン・Cソクラテス・Dアレクキサンダー大王・Eピタゴラス・Fヘラクレイトス・Gディオゲネス
Hアルキメデス・Iプトレマイオス・Jラファエロ(画家本人)

弟子でさえ、ソクラテスについて、脚色や捏造をしていた可能性がある。

ソクラテスには著作がない。彼の思想や人となりを知るには、他の人が書いたものに頼るしかない。弟子のプラトンは、ソクラテスについて多くを書き残した。

ディオゲネス(絵画のGの人)によると。ソクラテス本人は、以下のように述べていたという。

「この若者は、私について、なんと多くの嘘偽りを語っていることだろう」

ディオゲネスは、また、こうも指摘していた。

ソクラテスやティマイオス(実在した哲学者か架空の人物かわからない人)が発言者となっている時も。結局、プラトンは自論を主張しているだけ。


ディオゲネスといえば。「私は人間を探している」と言いながら歩きまわったという話が、有名だ。誠実な人がぜんぜんいないという意味。

他には、「奴隷は主人なしでも生きていけるのに、主人は奴隷なしにはやっていけないとすれば、おかしな話だ」という発言をしたとか。

ディオゲネスとプラトンの関係を言い表すのに、適切な言葉が思い浮かばない。

プラトンはディオゲネスのことを「狂ったソクラテス」と言ったことがある。

所詮は知識などくだらないとまで表現したことのあるディオゲネスを、プラトンは、ただのキチガイだとは思っていなかったのではないか。

どちらも、相当深みのある人物にしか思えない。紀元前数百年の人間が、ここまで物事を考えていただなんて。本当にすごいことだと思う。


ディオゲネスの絵には、かめのようなものの中で暮らしているさまを描いたものが多い。

世捨て人と言えばいいか……。

ずっと、なんだか既視感があるなと思っていたが。キアヌ・リーブスだと気づいた。このような彼の写真は、Sad Keanu で検索するとたくさん出てくる。


プラトンのものとは違い、クセノポン(クセノフォン)の著書は、「ソクラテス列伝」としての信頼性が高いという。

クセノポンは元軍人で、自分の特別な思想をもたなかったため、ソクラテスの言行に脚色を加えた可能性が低いとか。

元軍人ならという部分に、そんなことはないだろうとツッコミを入れたいところだが。この場合は少し違っていて。

彼は、尊敬するあまり、ソクラテスのコピー的な哲学者になろうとしていた。全力で継承しようとした、という感じかもしれない。

Wikiより

ソクラテスより知名度は格段に低いが。彼と同時代を生きた人に、プロタゴラス(紀元前485年頃~紀元前415年頃)がいた。

ソフィスト/ソピステースを職業として確立させたのは、プロタゴラスだった。

古典期ギリシャ(前5世紀~前4世紀)のアテナイを中心に活動した、金銭を受けとって「徳」を教える、弁論家や教育家のこと。

対話によって絶対の真理を探究し知を愛好する人として、フィロソフィーという言葉を際立たせたのは、プラトンだったが。


プロタゴラスは、西洋で主観主義を推進した最初の哲学者である。

主観主義とはこのような教義だ。

私たち自身の精神活動とは、私たちの経験における、唯一疑問の余地のない事実である。共同体的なものではない。

主観主義は、全ての尺度と法則の基礎として、主観的経験を優先させる。


アテネでは訴訟が盛んだった。裁判所では、毎日、数え切れないほどの裁判が行われていた。

そんな状況下。陪審員を説得する能力、自分の主張を受け入れさせ・相手の主張を退ける能力は、強く求められ・高く評価されていた。

プロタゴラスのようなソフィストが有料で教えることを申し出たスキルの1つは、これだったのだ。

重要なポイントだが。古代ギリシャには、まだ、弁護士というものが存在しなかった。

訴訟に関係する個人は、スピーチ・ライターを雇ったり、スピーチを雄弁に伝える技を鍛えたりした。

また重要なポイントだが。そうしないと、最悪の場合、死刑になってしまう。


プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と訳される言葉で知られているが。これは、全て個人の解釈に関係するという意味だ。

「正しい」や「間違っている」というのは、人々が自分の経験と解釈にもとづいて使用する、ラベルなのだと。

これらの定義に価値を与える最終的な真実がないため、究極の「正しい」や最終的な「間違っている」は存在しないと。

つまり、最終的には全て「意見」にすぎないことになる。


このプロタゴラスの主張に対して、特に強く異を唱えたのが、プラトンだった。

ここで一旦、改めてプラトンの人生をざっくりと見てみよう。

プラトンはあだ名である。本名は不明。

当時、文武両道が推奨されていた。

パンクラチオンの師匠に、プラトン = 広い と呼ばれていた。肩幅が広かったりしたのだろう。文章表現の豊かさから、広いと呼ばれていた。

両説ある。どちらも本当ということもあり得る。なんとなく、プラトンは文武両道だった気がする。片方だけでは大勢から認められないーーそんな時代だったのではないだろうか。

彼のレスリングの業績について、アリストテレスの弟子(プラトンの孫弟子)が、イストミア大祭に出場したと書き残しているのもあり。

師のソクラテスが「神々に対する不敬と青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、死刑が決まり、毒杯をあおいで死んだ時。プラトンは28才だった。

当初は政治家を目指していたプラトンだったが、このことから、現実の政治に関わるのを避けるようになった。

30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していった。

(プラトンは、著作のほとんどを対話篇で著した。複数の登場人物による対話形式の文学だ)

40代には、感覚を超えた真実在としての、イデアの概念を醸成していくようになった。


話を戻す。

対話篇『プロタゴラス〜ソフィストたち〜』の全体は、主観主義の見解を論駁するために費やされている。

彼は、プロタゴラスが間違っていることを証明するために、この本を書いたのだ。

対話篇『テアイテトス』の中では、こう書いている。どうやら、プロタゴラスに対して、まだ言い足りなかったらしい笑。

各人が感覚を通じて真実だと信じるものがあれば、それでいいのなら。なぜ、プロタゴラスは他人に教えるのにふさわしいとされ、多額の報酬を得ることができるのだろうか。

各人が自分自身の知恵の基準であるのならば。どうして、我々はそんなに無知で、彼の学校に通わなければならないのだろうか。

なるほど。プラトン、これはうまいところをついた。

プラトンのイデア論(私たちが真実と呼ぶものは、より高次の真実の反映にすぎない)も。プロタゴラスの相対主義的主張に対する、直接的な回答であったとも言えるのかもしれない。


余計なお世話かもしれないが。

日本語で「イデア」と検索すると、ツイステのキャラクター?ばかり出てくるのは、どうかと思う。この国の大人は少し子供っぽすぎる。

笑いごとではない。

いつまでも気が若々しいというのは、いいが。あまりにもものを知らないというのは、それは成人ではない。


プロタゴラスは主に、法廷で使う修辞術を裕福な若者に教えることで、生計を立てていたそうだが。

プロタゴラスの生涯と教えについて、私たちが知っていることの多くは、このプラトンの対話篇『プロタゴラス』からきている。

プラトンが師に関することさえ捏造していた可能性があるのは、前半に書いたとおり。

わかるだろうか。プロタゴラスがどれだけ、「不利な立場」におかれているかが。

パンクラチオンの像

私が思うに。プラトンが伝えたソフィストのイメージをすんなりと受け入れるべきではない。

きっと、プラトンは、前提から誤解していたのだ。自分が哲学をしているから、他の人も哲学をしているとしか見れなかったのだ。

すると。哲学をしている者が自ら率先して金をとっているなど、けしからん。知識は、皆に広く共有してこそ価値があるのであって。……的な嫌悪感もわきやすかろう。

プロタゴラスの考え方は、法廷で被告が訴訟に勝つのに、かなり有用だったはずだ。

主観主義を用いれば。Aが「Bは自分の物を盗んだ」と主張した場合。「Aは自分の物だと言うが、B(私)も自分の物だと言っている。物的証拠はない。Aの信念を検証する方法もない」と反論することができる。

おそらく、プロタゴラスは、(この例え話の中の)Bが犯罪者なのかどうかを気にしていなかった。もっと言うと、プロタゴラスにとって、真実は重要ではなかった。

プラトンがこれを批判したのは、わかる、当然なのだが。

繰り返すが。弁護士の存在しなかった時代だ。私の言いたいことが伝わるだろうか。プロタゴラスはこのような「仕事」をしていた、ということだ。


ソクラテスは裁判で主張してみた。

私は神から与えられた使命をまっとうしている。私は純粋にフィロソフィア(哲学)をしている。

ダメだった。聞く耳をもってもらえなかった。

プラトン、この時、少しも頭をよぎらなかったと言いきれるの?

先生!もう一度反論して/今は一旦逃亡して生き残ってよ!という考えが。

先生!天(後のプラトンにとってのイデア)なんか指さして潔く死んでる場合じゃないよ!という想いが。

あんただって、本当は、政治家になりたかったんでしょ?プロタゴラスは、弁護士というものに、なろうとしていたんじゃないのかな。

みんなまとめて「哲学者」じゃなくてさ。

感情移入しすぎて古代人に話しかけてしまった。私のあるあるだ。


プロタゴラスが相対主義哲学を固持していたことは、明らかだが。

私は、こうだったのだと推測している。

「より悪いものをより良いものに見せる」ことによって、裁判に勝つ。そのことありきで。個人だけが別々の真理と現実を理解できるというパラダイムを、彼はもち出した。

ここで、クセノファネス(紀元前570年~478年)の考え方を見てみよう。

クセノファネス「誰も、神々についての、私が語る全てのことについての、真実を知らない。これからも知ることはない。たとえ完全な真実を語ったとしても。本人はそれを知ることはなく、全てのものに見かけが働いているからだ」

プロタゴラス「神々について。私は、彼らが存在するのか存在しないのか・彼らの形がどのようなものか、知ることができない。知識をさまたげる要因がたくさんあるからだ」

パクったパクられたとか、そんなことを言いたいのではない。

プロタゴラスは、目的のために、過去の哲学者の考え方を流用しただけだった・自身がその考え方に強い思い入れがあるのではなかった、とこのような可能性がある。大いにある。

まだネーミングがなかっただけで。プロタゴラスは弁護士だった。


プラトンは、より広いビジョンで社会全体のことを考えていた。

プロタゴラスは、法廷で不当な罪状をくつがえしたい人々に技を与えていた。

どちらも大切だ。これに関しては、現代人の方がずっとわかる。

人間は、認識上のバイアス・記号上のバイアス・文化的なバイアスのせいで、他者の信念やふるまいを、自己の歴史的や文化的な文脈においてしか理解できない。そういうことがある。


プラトンは、誰もが充実した満足いく生産的な人生を送るために、理解し認めなければならない客観的な真実の基準を信じていた。

主観主義(プロタゴラスのという言い方はもうしない)や相対主義を一言で表すと。「人それぞれ」である。

全て人それぞれ。多様性とはわけが違う。これが本当に生きやすい世界だろうか。私はそうは思わない。

正しいふるまいなどない。悪いとされる行いもない。ガイドラインはない。いきすぎというものもない。ただの無法地帯、ただのカオスだろう。

私たちは、どこまで複雑になってもどんなに困難でも、最適な〇〇というものを一緒につくっていかねばならない。


absolutism(絶対主義)について。

1753年。キリスト教神学の中で、神を無制約の万能の存在とみなす姿勢のこととして、出現した。

1830年。政治的な意味で、君主を無規制の絶対君主とする姿勢として、使われた。

君主支配は、憲法などによる規制下にある立憲君主にすべき。このように言う場合、立憲君主とは相対君主ということになる。


プロタゴラスは、紀元前415年頃に70才で、不敬虔の罪で告発された。

ギリシャの伝統的な神々を否定し、無神論を推進したと。これは、古代ギリシャでは死刑に値する罪だった。

裁判にかけられる前に、アテネを去ることを選んだ。シチリア島のギリシャ植民地に向かおうとして、海で溺死した。ボートが転覆したか。まさか、泳いだのか。70才だって死刑になりたくないもんな……かわいそうに。

後に、ソクラテスも同じ罪で告発された。

不敬虔の罪で告発される人は、非常に多かったのだ。あらかたなんでも、「不敬虔」にできてしまうのだから。

長くなりすぎるため詳細は省くが。ソクラテスは、終戦の混乱の中で死刑になった。同じ状況や他の混沌とした状況が、もっと早くにおとずれていたならば、彼らは若くして処刑されていたであろう。


デカルト(1596年~1650年)

デカルトは、『方法序説』の中で、このように述べている。

軍隊生活の間、長く陰うつな冬を孤独に過ごし、2つの啓示を得たと。

自分で真理を発見するためには、他の学者の説を採用するのではなく、学問を自分自身のプログラムにもとづいて行わねばならない。

② すでに知られている・述べられていることを疑うこと。本当に自明なことを見出すこと。それらを基礎として、研究はなされるべきである。


いまだ叶わないつらい国もあるが。
今はいいよな。
勉強したってしたって、処刑されないからな。
ソクラテスは、めちゃくちゃうらやましがるだろうな。プラトンは、政治家を目指すんだ。プロタゴラスは、敏腕弁護士になってたくさんの人を助ける。
自由に勉強してもいいと言われると、なぜかしなくなるんだ。


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