シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈13〉

 ヴェイユの極端に突き詰めた思考や行動は、他者に寄り添うどころか、よりいっそう遠ざけてしまっているようにも思える。
 ところで彼女は、自分自身だけではなく、他人にも注意力が備わっているのだということを、はたして信じていたのだろうか?彼女にとって「他人」とは、誰にも注意を向けられることのない人々であるか、誰にも注意を向けることのない人々であるか、そのどちらかでしかなかったのだろうか?「この人は間違ったことを言っている」というのは、結局は彼女の他人に対する印象の全てではなかっただろうか?
 「あなた」ははたして「あなたに注意を向けている人の存在」に気づかなかったのだろうか?「あなた」が人々の不幸に気づくことよりも先に「あなた」は、「あなたに注意を向けている人の存在」に、何よりもまず気づくべきだったのではないだろうか?

 知己を得た神父から、ヴェイユは幾度も洗礼を受けることを勧められたが、彼女はそれを頑なに拒んだ。教会には「社会的な部分」がある、という理由で。そのような「この世の汚れ」を自分は忌避しているわけではないのだ、むしろ私はそのようなものに影響を受けやすい性質なのだ、と彼女は神父に弁解の手紙を送っている(※1)。
 一方で彼女は、神あるいはキリストが目の前に現れて、自分の身に触れたのだというような、見神・触神の体験を書き記している。見ること・触れることはまさしく「感覚」であり、自分だけにわかることだ。彼女にとっての神あるいはキリストとは、そのようなものなのである。教会において「社会的に共有される」ものではなく、「私だけ」に直接あらわれ、「私だけ」に直接触れるもの。彼女は自分自身の不幸ばかりでなく、神でさえ独占する。

 不幸な人は、自分自身の不幸にしか関心を持たない。言い換えると、不幸な人ほどエゴイスティックであり、ナルシスティックである。不幸は「立ち入り禁止ゾーン」を作りあげてしまう(※2)。その意味ではたしかに彼女自身が大変「不幸な人」であったのだと言える。
 彼女が「自分の中に入り込んできた」と思っていたような「他人の不幸」とは、結局のところ「自分自身の不幸」だったのであり、それを彼女は合わせ鏡ごしに見ていただけだったのではなかったか。そして逆に誰も「彼女の中には入り込めなかった」のではないだろうか。
 彼女は他者を求めなかった。他の誰に「注意」を向けることがあったとしても、彼女はつねに「一方的」だった。彼女の望みであった「絶対の孤独」とは、たしかにすでに彼女の生涯にわたって終生連れ立っていた。彼女は、一人で生きて、一人で死んでいった。彼女は、終生「自分自身だった」のであり、「自分自身にすぎなかった」のだった。
 キルケゴール風に言えば、シモーヌ・ヴェイユは「自己自身のみによって自己であることを欲した」のである。たとえそれを彼女自身が意識していなかったとしても。彼女は、自己を消滅させようと欲しながら、自己自身を食い尽くした(※3)。言わば彼女は「死にいたる病を生きた」のだ。ゆえにヴェイユの言う「不幸」は、キルケゴールの「絶望」に通じていると言える。
(つづく)

◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「手紙(二)」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※2)ヴェイユ「工場生活の経験」(『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』所収)
(※3)キルケゴール『死に至る病』岩波文庫など

◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)

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