凍土の将軍

「中将 大木繁」を知る人は多くない。そこで彼「凍土の将軍」を主人公にした小説を執筆中である。NOTE への投稿は、備忘録である。

凍土の将軍

「中将 大木繁」を知る人は多くない。そこで彼「凍土の将軍」を主人公にした小説を執筆中である。NOTE への投稿は、備忘録である。

最近の記事

日本憲兵外史⑨                軍服を着た猿の大群

軍倉庫が開放され、二日間にわたって在留邦人に衣料、食糧が支給された。  八月二十二日午前九時、奉天憲兵隊からの電話連絡で、鎌田浩憲兵大佐の凄惨な自決を報らせてきた。しかも、奉天市内は暴徒の乱入となって大騒乱の最中であった。憲兵たちが表情を暗くしたのはやむを得ない。  そして正午、遂にソ連軍が四平街に進駐して来た。早速、ソ連軍による猛烈な略奪行為が開始されたが、それはまさに軍服を着た猿の大群であったという。  関東憲兵隊司令部は、ソ連軍の指示も干渉もないままに自発的に武装解除を

    • 日本憲兵外史⑧           関東軍の指揮下を外れる

          しかし、あえて在満を欲するならば、今後勝手たるべし」 ということであった。  これでは憲兵隊は邪魔者扱いである。  八月十七日、軍の家族を輸送して、朝鮮の平壌まで南下していた生田省三少佐から、人見実軍曹が伝令として戻ってきた。  生田少佐の報告で、総務部河村愛三大佐が、尾崎少佐以下数名の下士官を連れて急遽平壌へ出発した。残った関東憲兵隊司令部の大黒柱は、平木武大佐となった。  同日午後一時、関東憲兵隊司令部要員は新京へ向かうため大混雑の通化を逆行で出発した。情報収集で

      • 日本憲兵外史⑦           抗戦継続か? 大命遵奉か?

        関東軍総司令部要員は航空機で新京へ向かった。  この夜、関東軍総司令官官邸で、山田総司令官、秦総参謀長以下の幕僚が集結して、抗戦継続か大命遵奉かの重大会議が行なわれた。この状況を前掲長谷川報道部長の手記では、次のように記している。  〈声涙下る大激論で、なかなかおさまりがつかなかったとき、秦総参謀長は一同を眺め廻し、  「山田乙三を関東軍司令官として終わらしめるのか、それとも違勅の一匪賊に終わらしめるのか」  と大喝して、大命遵奉に衆議をまとめた。だが、この一言はどうもひっか

        • 日本憲兵外史⑥                                 8月15日 玉音放送を通化で聴く

          早早に朝鮮へ南下させた。  この夜、関東憲兵隊司令部将校は、通化市内の竜泉ホテルに、准士官以下は在留邦人宅にそれぞれ宿泊した。  このころ満州特設憲兵隊の雨宮初治郎中尉が到着して、脱出して来た新京市内の惨状を報告した。新京は集団暴徒の略奪が開始され、日本人が各所で襲われ、凄惨な状況下と変わっていた。  しかも、この日、関東軍司令部からの連絡で、明日正午に重大放送が行われるとの通知があった。  明くれば昭和二十年八月十五日正午、大木司令官以下の憲兵は、正装して通化分隊庁舎のラジ

        • 日本憲兵外史⑨                軍服を着た猿の大群

        • 日本憲兵外史⑧           関東軍の指揮下を外れる

        • 日本憲兵外史⑦           抗戦継続か? 大命遵奉か?

        • 日本憲兵外史⑥                                 8月15日 玉音放送を通化で聴く

          日本憲兵外史⑤                関東憲兵隊司令部を新京から通化へ

           上空に友軍機なし地上に重戦車なし。 それほど関東軍は弱体化していた。これを敵のソ連が熟知しているのだから始末が悪い。  ちなみにソ連軍の重戦車に対して、激戦よく敵に大損害を与えたのは、わずかに東部地区の牡丹江、虎林方面における第五軍の凄惨な死闘であった。  同日午後十時、関東軍憲兵隊司令部は通化転進のため、すでに到着していた関東憲兵隊教習隊の第十四期生の約一〇〇名を加えて、今別府少佐の指揮のもと数十台のトラックで出発、新京駅に到着、さらに関東軍司令部要員とともに輸送指揮官東

          日本憲兵外史⑤                関東憲兵隊司令部を新京から通化へ

          日本憲兵外史④           上空に友軍機なく、地上に重戦車なし

          命令五、の続き    全市の周辺および各地区の周辺には、遅くとも明後日払暁  までに対戦車壕を構築すべし。  対戦車壕は、敵重戦車の攻撃に耐え得るために、幅六メートル、  深さ三メートル以上なるを要す。  在京各部隊並びに各地区防衛部隊は、本築城のために全力  を傾倒すべし。  各地区防衛司令官は、本築城のため全市民を動員するものとす。  この時、関東憲兵隊司令部から出向した宮本憲兵少尉は、 前掲著書でその感想を次のように記している。  「計画や壮なり。しかし、新京は環状線

          日本憲兵外史④           上空に友軍機なく、地上に重戦車なし

          日本憲兵外史③           新京・首都攻防戦の準備

          ボイラー室で書類の焼却を行った。  翌十二日午後一時、関東防衛軍司令部は各部隊命令受領者を集めて、次の命令を下達した。  一、(満州国の)東部正面は、牡丹江周辺において目下激烈なる戦闘を展開中     なり。敵(ソ連)はすでに北鮮に侵入し、南下の態勢を示しつつある。  二、北部正面における国境附近の戦況は、その後大なる変化なし。  三、西部正面においては、内蒙国境より侵入せる有力な重戦車を有する機    甲部隊に掩護せられたる敵は、白阿線南北側を急進中にして、その先    

          日本憲兵外史③           新京・首都攻防戦の準備

          日本憲兵外史②           在留邦人引揚の命令

          在留邦人引揚げと、総司令部および満州国政府の通化後退が決定した。(八月十日)午前十一時頃であった。  総司令部の通化後退はともかく、一般人の引揚げはもう開始されていた。そのためにも鉄道輸送の確保が最も重要なはずであった。  翌十一日、宮本少尉が関東軍戦時防衛司令部に命令受領のために出頭すると、次の命令を受領した。  一、在京(新京)各部隊軍人、軍属の家族は、本日二十時、新京駅発臨時列車    にて疎開すべし。  二、新京駅までの輸送は各部隊において実施すべし。これに要する自

          日本憲兵外史②           在留邦人引揚の命令

          日本憲兵外史①           関東軍の指揮下に入る

           運命の八月九日があっという間に過ぎ、翌十日になって各憲兵隊は(関東軍の)各地区軍司令部の指揮下に入った。  さて、ソ連開戦後、関東憲兵隊司令官「大木繁中将」は、泰然自若として司令官室にこもったままであった。 平木武大佐の回想によると、大木憲兵隊司令官は関東軍総司令官の命令によって行動すべく、司令官室に待機したままであったという。 この時の意中を側近に洩らしていないので不明だが、恐らく最悪の事態に陥る覚悟をしていたことだろう。  関東憲兵隊司令部に伝えられる戦況は、刻一刻とわ

          日本憲兵外史①           関東軍の指揮下に入る

          中将 大木繁 (22)           『福井県護国神社の碑文』

          福井県の護国神社に顕彰碑がある。 写真の文字が読みずらいと思うので、書き起こしました。 読みやすいように、難しい字は「ひらがな等」にしました。 碑文の全文 皇軍の歴史あって80年、憲兵はその儀表兵科として、 終始 軍の健全擁護につくし、更に昭和に入り数次の事変および 大東亜戦争おこるや、軍令憲兵として作戦任務に従い、諜報 防諜戦などに、よくその本領を発揮し、多大の功績を残した。 しかるに昭和20年8月わが敗戦とともに軍は解体せられ 憲兵は、あたかも幾多の罪科を犯したごと

          中将 大木繁 (22)           『福井県護国神社の碑文』

          中将 大木繁 (21) 1945年9月-1947年4月『空白の1年半』

          大木司令官が、ソ連領内に連行された正確な日時は分からない。 日本憲兵正史、外史にも、正確な日時の記載はない。 正史・外史の記述によれば、1945年9月10日頃までは、 大木司令官は、新京の海軍武官府跡の仮監獄に投獄され、 ソ連側の取り調べを受けていた。 それゆえ大木司令官のソ連領への強制連行は、1945年9月10日以降、 おそくとも最後の編成が新京を出発した1945年の11月12日であったと 推測する。 靖国神社の御祭神調査では、 大木中将の死没場所は、モスクワ市モスクラ

          中将 大木繁 (21) 1945年9月-1947年4月『空白の1年半』

          中将 大木繁 (20)1945年11月21日『チタ収容所』

          「日本憲兵正史」と「日本憲兵外史」で一致する記述は「11月21日」の「チタ監獄・収容所」到着である。 日本憲兵外史には、11月21日以降の動静が、日本憲兵正史より詳細に記述されている。以下はその抜粋 (p.1374)。 (引用開始)  こうしてチタ監獄へ収容された司令部憲兵が、またもやソ連側に取り調べをうけているうちに、奉天憲兵隊要員が到着。 (収容された)日本人約500名は、朝鮮人、白系ロシア人らと、12月19日にチタを出発。一部はノボシビルスク、オムスクで下車(させ

          中将 大木繁 (20)1945年11月21日『チタ収容所』

          中将 大木繁 (19) 1945年10月21日 『ソ連領内へ強制連行』

          「日本憲兵正史」からの抜粋 (p.1176) こうして11月21日以降、憲兵関係者はチタを始め各地へ送られ、 過酷な抑留生活を強いられることになる。 「日本憲兵外史」からの抜粋 (p.1374) この収容所(新京の南嶺捕虜収容所)には、9月以来、関東憲兵隊司令官「大木中将」以下の司令部関係将校が収容され、ソ連軍司令部の取り調べを受けていた。 10月21日、第一陣として松永中佐以下の憲兵隊司令部将校のほとんどが将校大隊に編入され、貨車で新京を出発した。いよいよソ連領へ抑留開

          中将 大木繁 (19) 1945年10月21日 『ソ連領内へ強制連行』

          中将 大木繁 (18) 1945年9月5日『新京の南嶺収容所』

          9月5日 橋本虎之助中将、吉岡陸軍中将、田上憲兵曹長が新京から奉天に連行され、軟禁された。 橋本中将は、満州国祭礼総裁 吉岡中将は、関東軍から満州国宮内府へ出向しており、祭礼課長 9月7日 橋本中将、吉岡中将らが、軽装のままソ連領内へ連行された。 9月10日 大木司令官、平木憲兵大佐、伊藤憲兵少佐以下、次々に海軍武官府跡の 仮監獄に送られて、取り調べを受けた。 10日に一応の取り調べが終わると、憲兵関係者は奉天から新京へ移送。 移送後、大木司令官以下の司令部関係将校は、

          中将 大木繁 (18) 1945年9月5日『新京の南嶺収容所』

          中将 大木繁 (17) 1945年8月21日『奉天から新京へ強制連行』

          21日 ソ連軍が「四平街」に侵攻 23日 関東憲兵隊司令部は、武器をソ連軍に提出して、武装解除を終了 27日  午後11時35分、ソ連軍は、関東憲兵隊司令部および憲兵全員を   「四平街」にある「植半旅館」に集合させた。           集合させると、直ちに「四平街」駅へ連行し、     装甲列車に客車を連結させた列車に、全員を乗せた。 28日 早朝 列車は「四平街」駅を出発     日没に「奉天」駅に到着     憲兵将校が乗車した一両だけを「奉天」駅の東端に止め

          中将 大木繁 (17) 1945年8月21日『奉天から新京へ強制連行』

          中将 大木繁 (16) 1945年8月17日『鉄道が止まり四平街で足止め』

          関東軍司令部は、関東憲兵隊司令部を「新京」に戻すことを承認した。 午後一時、大木繁司令官以下全員が「通化」を出発した。 17日の夜に「四平街」に到着した。 しかし、「四平街」から「新京」へ向かう鉄道は不通となり、 足止めとなった。 そして8月21日、ソ連軍が「四平街」に攻め込んできた。

          中将 大木繁 (16) 1945年8月17日『鉄道が止まり四平街で足止め』