日本憲兵外史⑤ 関東憲兵隊司令部を新京から通化へ
上空に友軍機なし地上に重戦車なし。
それほど関東軍は弱体化していた。これを敵のソ連が熟知しているのだから始末が悪い。
ちなみにソ連軍の重戦車に対して、激戦よく敵に大損害を与えたのは、わずかに東部地区の牡丹江、虎林方面における第五軍の凄惨な死闘であった。
同日午後十時、関東軍憲兵隊司令部は通化転進のため、すでに到着していた関東憲兵隊教習隊の第十四期生の約一〇〇名を加えて、今別府少佐の指揮のもと数十台のトラックで出発、新京駅に到着、さらに関東軍司令部要員とともに輸送指揮官東条栄次大佐の指揮で、翌朝六時に列車で通化に向かって出発した。将兵の指揮はすこぶる高かった。
関東憲兵隊司令部が、吉林を経て新通化駅に到着したのは十三日の夕刻であった。直ちに通化憲兵分隊に向かい、満軍の兵舎に宿泊した。
通化には、八月六日に四平を出発して到着したばかりの四平憲兵隊長上坪鉄一中佐、副官中野勝大尉以下の四平憲兵隊員を迎えて、通化憲兵分隊長須郷秀三少佐は、受け入れ準備におおわらわであった。
翌十四日は朝から雨であった。関東憲兵隊司令部の置かれた通化憲兵分隊に、篠衝く雨の中を、前日新京の疎開列車に乗り遅れた新京憲兵隊や教習隊の家族全員が到着した。
須郷分隊長は乏しくなった食糧を、家族たちに補給して・・・
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