佐久間寬厚
16~23歳までの主に様々な障害を持つ人達と過ごし、相手の心の深くまで潜る経験の最中に書き継がれと言うより殴り書きの様な断片が莫大に残された。20数年後の今、それらの言葉を改めて読み直し書き写して行く作業を進めている。
人間の心に迫る数々の場から見てきた、世界観、実践的知恵、人がその能力を全開にする為のカギ。これまで語らずに来た秘密度の高い内容をこのページで公開して来ました。特に重要な部分、有料記事にしたものを2022年もまでの記事を全て纏めてパッケージ版とします。恐らく他では殆ど語られていない内容かと思います。
多様性と共存、宇宙でたった1人、唯一無二の存在がそれぞれ個性を発揮し、集まる共同体は可能か、人類の未来のテーマを先取り実験したパイオニア宮島真一郎。16の僕が出会った親方との時間を書き残そうと、1年半に渡り書き継いできたシリーズ。
人間の可能性、潜在力を全開にするための方法をエッセンスシリーズとして纏めて来ましたが、その中でも更に厳選した13本の記事となります。
これはフィールドノートと呼べるものである。 最初に公開した1は、ほぼ時系列に書き写したけど、今回のは編集の手を加えある程度纏めている。 16歳から19歳までの3年間の断片の中からテーマ的に共通するものを。この3年はかなりの距離と場所を移動し続けて沢山の人に会っているが、ノートのテーマは殆どが信州での実践から生まれた言葉である。 人間の潜在意識と言うものに触り続けた記録である。 この様な実践、視点、角度は僕のオリジナルであり、それはこの世界の何処でも行われていなかった、未知の領
皆さん、3連休最終日いかがお過ごしでしょうか。 僕は当然仕事でした。 さてさて、初期ノート2間もなく公開します。 2024年の僕からの贈り物です。 特別公開です。 2023年は信州への原点回帰があった。 この旅の帰結としては条件があまりに不充分ではあったけれど、しっかり韻を踏み続けてのドラマティックな伏線回収ではあっただろう。 場にはドラマ性が重要な要素としてある。 ま、人生もね。 そして初期ノート1から大分空いてしまったけど、やっとここに2が公開出来る。 人類にとって
また随分経ってしまった。 初期ノート2の編集作業はノロノロだけど進めてはいる。 あと書きかけの記事で心境の変化も書いてたんだけどねぇ。 そう2024年も終わりが見えて来た。 色々変わったなぁって言う気持ちはあってね ちょっとだけ差し障りのない石の話をしよう。 前に翡翠のことをちょっとだけ書いたかな。 石について書いたのはまあ、それくらいか。 でも実を言うと石とはかなり長い付き合いで、もしかしたら石なくして僕の人生はないかも、ってくらい。 そこは珈琲と同じかな。 とくに
楽しみ過ぎてワクワク待った。 生まれた時からアルデンテから10年、 平野紗季子の新刊は期待通りで、 読み進めるのが勿体ないほど大好きな世界だ。 まだ半分までしか読んでいない。 平野紗季子のことは「個性的であれ」と言うブログ記事で書いたことに、もう付け加えることはない。 刹那に生きること、 感性を守り続けられること、 この世界の中で惰眠を貪らないこと、 これがどれだけ困難なことか知っている。 頭は世界を止めようとする。 動かないもの、変わらないものを求め、 そんなものは存
Iちゃんが亡くなってもう25年、もっと経つだろうか。若いままこの世を去って行ったIちゃん。 ヤンキーっぽく、ギャルっぽく、オシャレで可愛いお姉ちゃんだった。 エステシャンだったけれど、僕の知るIちゃんは中学生で制服を来ていた、年の割に大人っぽい女性だった。 Iちゃんは僕の親戚で数ヶ月だったけど親代わりだった。しかし、その数ヶ月の濃厚な記憶と関係によって、その後会う度、すれ違う度に2人にしか共有し得ない絆を感じ合った。 Iちゃんが抱きしめてくれたこと、いつも一緒に寝ていたこ
今、仕事前に日陰のある公園でクーラー疲れを癒している。少しだけど風も抜けて良い感じ。 いやー、諸々あって、忙しいし暑いしね、 作業も中断しちゃってるんだけどね。 そうここ暫くは個人的なテーマだけ扱ってきたからね。 いやいや、しかし、 初期ノート2の編集は未生理ながらバックアップされてて、まあ、かなりの内容になっちゃうのでぱっと公開は出来ないし、少しだけ躊躇もあるけど、ね、編集は進めようと思うので、うーん、秋位には公開出来るかも。いや意外ともっと早いかな。 あのノート読
月日ばかりが流れて行く 最近はますめすパラレルワールドの中に迷いこんでいる。ふと、あれ今っていつだっけって思う。 全てはとっくの昔に過ぎ去ってしまった。 それはそうとなかなかここに書けないけど、既に充分な量と内容をここに書き残したので、それらを使って欲しい。 今新たな内容があるとすれば、それはゴールではなくて人間のプロセスにおける発見で、 これは実践的な内容なのでまだ書き文字では伝えるのは難しいかな、と。 ここ数年子供達と付き合ってきたことが大きいかも知れない。 あとね
みんなごめん ここを忘れた訳ではなくて、ね、 色々取り組み中なんだよねー 人生終わりへ向けて さてさて、金沢長町のあの記事は、 秘密度の高い、そして極めて個的なものだったけど、 ね、重要なテーマだったし、 あれを書いたことでまた少しね、 総括出来たところもあってね 合間に少し金沢へ帰って来た 年々、あの街から受ける影響が深くなる 最後はきっと帰るよ、金沢に いつになるか、どんな形になるか分からないけど 色々また書くから暫しお待ちを 金沢、南の玄関口、犀川大橋が誕生から
ほんとに天を貫くような意識の中に居る。 前回の記事は迷ったけれど書いて良かった。 書けて良かった。 とても個人的なとても私的な内容の極みみたいな記事だったけれど、決定的に重要なことを語り終えた。 生きてることの醍醐味だな、って。 あれを書いて、あれを書けて、 あの記事の景色を見れて、戻れて、 本当に良かった。 母川回帰 本当にそうだった。 金沢の長町の景色が、あの中に居た頃の僕や、 あの場所に居たみんなが、 今見えている。 そして僕はそこに居る。いまも。 ずっと。
さて、最近何度か触れたけれど、佐久間メソッド、佐久間心理学の理論上の完成がやっと出来た。 やはり現場でのメインを離れて数年が必要だった。 これでやっとこれまでの特殊な環境から見えてきた人間と世界への見解を一般的な役立つ方法論としてお伝え出来る様にはなった。 なったけれどその機会があるのかはまだ分からないけれど。 やはり奥義だけでは駄目でもっと手前のことをやらなければならないと長年の感覚があったけれど、僕にとってはそこを埋める方が奥底へ到達するより難易度が高かった。 でもようや
何かの偶然でこのメッセージを読み、たまたま良い角度で心に入ったら、ま、奇跡が起きます。 人生一変する。 残念ながらそれは運に頼るしかないんだけども。 場においてはそこを感じ取ることを共有の世界で、言語を使わずに行われる。 だから言葉でやることは不可能でもどかしくもあるけど、例えば札束抱えて今野垂れ死にしそうだとしたら、少しでも誰かが拾えそうなところに置いて行きたいって感じで。 ほぼ99%の人は見過ごし、通り過ぎて行く。 まあ、それもこの世界と人間の定めかも知れない。
さて、そろそろもう1つの方のブログも残り2つのテーマを書いておかなければ。 と思いつつも。 10代から関わってきた場と言うもの。 止まって思考したことは無かった。 全ては場の中で起きたと言っても過言ではない。 色んな人が場に関わって来たけど、 1つ僕の関わる場と言うものの特徴は、 宇宙、人間、生命の源、本質に迫るもの、 ひたすら掘り下げ、潜り、果てまで行く営み。 だからこそ全てを教えて貰った。 全てを見せてもらった。 面白いことに場が最初に見せてくれたのはゴールであり
東京時代、沢山の人に囲まれ、沢山の人に会い、沢山の場所に身をおいた。 或いは沢山の場所に出向いた。 この時代の中で伝え、繋ぐことを目指して来た。 僕の前半戦はひたすら個人の内面と向き合うと言う心の旅だったけれど、そこで得た普遍的テーマと同時に様々な問題を整備して行く使命を全うするには、この世の中のど真ん中に居なければならなかった。 全ての挑戦には全く後悔はないが、普及版をやるには別の適任者が必要と言うことはつくづく感じてきた。 先を行くことは孤独なことである。 しかし
今日は月に一度の出張クラス。 地道に続けて来た地元施設での絵画の時間も1年が過ぎた。これまで沢山の場に入り関わって来た。 一口に制作を見ると言っても、僕の関わり方は特殊なものだと言うことに、現役を降りたからこそ改めて深く実感する。 まあ、何度も言って来たことではあるけれど、制作の場に関わること、制作を見ることとは、相手の心の深みへと共に潜って行くことであり、それは何と言うのか途轍もないことである。 雰囲気良いとか、楽しそうとか、そんな何となくのことではなく。もっと言えば凄い
以前にAIについて書いたことがあって、 今の世の中、いや、これから先にどんな世界が待っているのか、色んな意味でAI化は確実に進んで行く。 今でも多くの勘違いが殆どで、人とAIが何故か競っている。AI作る側も人と勝負しちゃってるし、AIを恐れる人間達もAIに負けまいとする。 ジャンルが違うってことが見抜けない。 まだまだ殆どの人は綺麗事は口にしても、 本心のところでは勝ち負けが全てと思っている。 勝ち負けなんてちっぽけなものなのに。 この世界のほんの僅かな一部に過ぎないの
場を再定義すると言うシリーズでの記事かな。 一度、出会いから初めて全くの0から場を語り直してみたいと言う気持ちもある。 ただ僕の背景には途轍もない広大な世界があるが、それらはこの生の中で断片的にしか語れない気もする。 今日もちょっとだけ書く。 嘗ては時間なんて存在していなかった。 いやある時期の僕は時間の向こう側にいた。 場と出会った頃のこと。 そこからの数年間のこと。 今でも振り返ると本当に不思議な思いがする。 僕らがいた場所。 そこには時間が存在しなかった。