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初期ノート 2

これはフィールドノートと呼べるものである。
最初に公開した1は、ほぼ時系列に書き写したけど、今回のは編集の手を加えある程度纏めている。
16歳から19歳までの3年間の断片の中からテーマ的に共通するものを。この3年はかなりの距離と場所を移動し続けて沢山の人に会っているが、ノートのテーマは殆どが信州での実践から生まれた言葉である。
人間の潜在意識と言うものに触り続けた記録である。
この様な実践、視点、角度は僕のオリジナルであり、それはこの世界の何処でも行われていなかった、未知の領域に触れる体験であったと、今でも強く感じている。
初期ノート1、そしてこの2での言葉が書かれた地点で、佐久間と仲間達とは何か決定的なことに気づいて、大袈裟に聞こえるだろうが、人類にとってもとても大きな革命的な道へ歩み出した。

初期ノート2はそこから数十年の時を経て2024年にほぼ1年掛けて再び書き写された。
この作業は元々もう少し編集の手を施し、少しは体系的にする予定だったかれど、それは難しかった。
断片的な形のままではあるけれど、ひとまずはここに公開しようと思う。
前例のないこの挑戦的実践とそれを可能にした仲間達と佐久間へ改めて敬意を示したい。
奇跡の様な決定的な発見の場面をささやかながら感じて頂きたい。
ノート3へと続く予定ではあるけれど、既に核心はここに結集していると感じている。
そして、初期ノート1はセキリティ的な事情も加味して有料記事として出しているけど、この初期ノート2は色々考えた結果そのまま公開版とする。
2024年の僕からの皆さんへのプレゼントとしたい。
何か少しでもと言う思いがあって。
あの時間と経験があったから自分の人生がある。
これらの断片を30年近くも前のみんなへ、その後の長い実践を支えてくれた方々へ、この世界で出会った全ての人へ、そして未来の人達へ捧げたい。


ここでの実践の中で1番のポイントは言葉のない世界、言葉以前の世界と言うことだ。
言葉を使わない、使えない人を前に、その人の心の動きと対話する。
そこには動作が大きな意味を持つが、動作すら伴わない対話こそがメインとなる。

見ることは感じること、聴くことと同時にある
いや、五感の全てが同時に動く必要がある。

スピードが命
タイミングが肝

眠っている人と話す様なことだ。

錯乱の中で暴れ回っている人への対処はほぼ動きで行われる。正直動きがない人より簡単だ。

相手の知覚と同期すること。

僕達が生きているのは言語の世界に過ぎない。
言語の向こう側、言わば言語を発生させる根源であり、未だ言語になっていない母胎であり基底である、動きの世界、気配の世界、そこでのやり取り、
未発の世界は人間の意識と宇宙の発生の元である。
僕はそれを見ている。

障害と言われる人達のあり方、その心の領域を僕の様なアプローチで見ている人、実践している人がこの世にただ1人もいない。
だからこの旅は恐ろしい実践である。

数ヶ月の経験で僕は圧倒的なものに迫りつつある。
人生の始まりの場所である意味のゴールを、最終地点を見つつある。

たった1人で挑んでいるこの実践は、人類にとって決定的な何かを示している。

自分が今立っている場所、今見ているものに驚愕する。

一瞬の判断が命に関わる
外せない
他に誰が出来るのだろう。

夢遊病の様に生きる人、
錯乱、
半覚半睡の人達
自らも睡眠を削いで対応しなければならない。

ここにあるのは潜在意識がそのまま露呈している人達との日々。

ここに何かあると感じてこの生活に身を投じたのは直感だったけど、それは正解だった。
それもたった1パーセントの。

とんでもない領域に踏み込んでしまったし、出会ってしまった。
そうなった以上は逃れられない。
もう既に見てしまったものへの責任が伴う。

命を懸けてこのテーマに挑む。
恐らく一生。

相手の心の動きを手に取るように感じられなければならない。
いや、それと一体化していなければならない。

恐れや不安は全くない。
相手を見る時、自分は消えているから。
そうしないと見えない。感じられない。

脳の中から言語を消し去ることが出来る様になった。

障害者と呼ばれる人達、1人1人の心の奥を掘り進めば全宇宙の姿を見ることが出来る。
それは今僕が目の前で経験していることだ。

まだこう言うことに誰も気づかない、
手を付けていないことに愕然とする。

自分のやるべき役割が分かって来た。
そしてまだ誰もこの道を歩んでいないどころか、
この道の存在さえ気づく者もない。

確かに危険、
錯乱状態で刃物を振り回す人も1人ではないし。
感覚反応が僅かでも遅れたら、
心の同様、波が僅かでも起きたら、
命を落とす可能性もある。

考える時間はない。
即動いていなければ。

外さない
自分でも驚くほど
パーフェクトな動き

誰も教えてくれない
自分で見つけるしかない

相手に入って行く
入口が殆どの人には見えないらしい
僕にははっきりと見える

彼らの奥に何があるか、
どんな世界が動いているか、
そこを見た人間にしか言えないことがある。

毎日、景色が変わる
毎日世界が変わる

この世界は夢幻。
夢の中を僕らは生きている。

同時に無数の世界が存在している。
僕の役割はそこを行き来すること。

時間を超えて過去にも未来にも生きられなければ、
人間の心を相手にすることなど出来ない。

現場での自分の仕事、
動き、
パフォーマンスとしては今がピークかも知れない。

誰にも知られずに始めて、誰にも知られずに終わって行く。

錯乱状態にある人たから人間の本質を見せられることが多くある。

圧倒的に時間がない。
何時何が起きるか分からない。
寝る時間も食べる時間もない日も多い。

記録する隙間はない。

普通の人がぱっと見たら、障害者や病人がいるだけに見えるだろう。
でもここには世界の本質がある。
内側を見る目を持った時に。

障害者を扱うあらゆるジャンルが結局のところ、外側から障害者を見ているに過ぎない。
内在的に、彼らの側から世界を捉えてみる、と言うことが誰もやらないし、出来ない。
僕はそれをやっている。

いつか誰かがこの実践に気づく日が来るのだろうか。

たった2年程で途轍もない経験を重ねてきた。
こんな光景が目の前にあるとは。

いったい何人が死んで行くのか。
壊れて行くのか。
しかし、直視し続けなければならない。
そしてやらなければならない。

相手の中に入って、そこから見ること、
その技術はどんどん上がる

表に現れているもの、浮かび上がっているもの、
そんなものは手掛かりに過ぎない
その奥に、背後に何があるか。

心の奥へ
世界の裂け目、そこを通って行く

長い長い、遠い遠い旅だ。
引き返すことは出来ない。

心の病のある人と言うのは、
この世界の裂け目からここに迷い込んでしまった訳だ。精神科医は出口を探すけど、ここには出口なんてものはない。
人が迷い込むこの中に、僕は自ら入って行く。

人間扱ってないで外から見てて分かるわけないから。

もう僕には今がいつの時代で、今自分が誰なのか分からない。全ての境界線がない世界にいる。

鍛錬、鍛錬、日々鍛錬。
誰よりもやってるのだから、誰よりも見えて当然。

目まぐるしく景色が変わる
全ての感覚を使っている実感がある
人の心の中を旅してありとあらゆる経験をする

こんな所まで来るとは思わなかった

人間の心の中には全宇宙がある

その人に言葉はなくても、僕は対話できる

呑まれたら死ぬ
呑まれないためには抵抗するのではなく、
しっかり見ること

どんな形の心であれ自分の中に同質のものがある、
人類共通の心の構造は1つしかない
しかしそれは複雑な層に別れている

一人一人と向き合い、一体化するだけではなく、
総体としてのそれぞれが集まって響きあっている、この場と言うものを捉え切らなければならない

場は生命体だ

一旦言語を脳の中から消し去る必要がある
そこまで行かなければ夢遊病の様な状態でいる人達に適切な対応は出来ない

僕は相手の潜在意識と対話している

毎日、ジェットコースターに乗ってるみたいだ

相手の中に入る
相手を生きる

怪我なく終われて良かったけど、
安眠など出来るはずがない
夜中であろうと、睡眠の最中であろうと、
どこかで研ぎ澄ました意識を保たなければならない
これは他の動物に襲われる危険の中で眠った嘗ての人類と同じことなのかも知れない
だからこそ可能なはず

誰もやらないだろう、
ここまでは
でも僕はもっとやろうと思っている

経験の中にどっぷり浸かっていた
どこかでもう少し客観視、分析、記述、普遍化も必要となる時期が来るだろう。

山籠りに近い。
里へ降りて他の経験や人と会う必要がある。
でも今はまだ出来ない。

気を失ってたように、ふと気がつくと全く違う世界にいる
そんな感覚が日常になりつつある

とにかく、凄いスピード感だ
流れが猛烈に早い

医者や専門家が外から観察して分かるはずがない

場に立つとみんなが同時に感じられる、
全てが同時に見える
後ろにも斜めにも眼がある

人以上に場を見ると言う感覚になりつつある

また同じ景色を共有していた
1つの人生をその人と一緒に初めから終わりまで全てを経験する様な感じ

入ったらもう出られないと言う世界がある

心も身体も変わってしまった

今がいつの時代なのか、本当に分からない

壊れて行く人達、命を落とす人達、こんなに沢山見続けることは、流石にきついところもある

人間を超えて行かなければならない

人間であったら、人間のままでは場をこなすことは出来ない

その場において感情を離れること、
即座にそれが出来なければならない。

圧倒的な景色を前にしている。
光り輝くこの光景。

半覚半睡が基本になった。

この現実は夢である。

不思議なことに全ては自動的に進む
それをしっかり見届けている

完璧な世界、パーフェクトな世界。

分かりすぎる、見え過ぎる。

失敗出来ない世界で、練習もできない世界で、
なんの不安も疑問もなく場に入れる。

剥き出しの人達とこれだけ一緒にいると、
人間が言葉で出来ていないと分かる。
確かに言語だけでほぼ解釈可能な人達がいるけれど、
それは現代人だけの話で、人間の本質は言語的ではない。

日々勝負
それも一発勝負だ。

人間の本来の姿に感動する

前例の無い実験、
前例のない実践。

突き抜けて行かなければならない。
突破せよ。
その先にあるもの。

今見ている景色
経験している世界、
例えるならずっと臨死体験みたいな感じ

生のスピードがグングン加速している。
もう誰にも止められない。

昏睡状態の中で意識を保つこと

昏睡状態の人達と一緒に同じ意識に降りて一体化して見て行くこと

眠りなから夢の中で起きていること

この世界は夢と全く同質である

意識と無意識、潜在意識の境界を無くすこと

相手の心の奥深くに潜っていく
奥へ奥へ

この世界の全てが夢
深い夢の中を醒めて生きる

夢の中を突っ走る

夢、夢、夢
全て夢

難しさはない
みんな同じ、同じ構造があるだけ
やるべき事も明確
ただ、この世的に上手く行くかどうか、
成功、失敗はどっちに行くか分からない
出来ることはこちらの処置が完璧であること、だけ

成功、失敗、良い悪い、そんなのは仮の姿だから

幸福か不幸か、これも紙一重だし、仮の姿と言える

治る治らない、健康か病気が、ここもこの二項対立を超えて捕えないといけない。

表面的な意味ではなく、解釈次第とも言える。

解釈が世界を作っている
解釈は侮れない

解釈こそ個性

相手を変えるとは相手の解釈を変えること。
それを可能とするのは夢の認識。
仕組みはシンプルだけど、実際に実践するのはなかなか困難。

僕にとっては全ては容易だ。

場で外すことはない。

場での実践を重ねてきて、夢の自覚を保ち、意識を覚醒させて、この世界を夢と見続けることで、
眠っている時に夢を見ることが無くなった

何百人も見ているけど、単純に僕より上のパフォーマンスは見たことがない。
場で僕より出来る人に会ったことがない。
と言うことは対話を深めることは不可能。

場の中にいる時、殆どはいわゆるゾーンに入っている

解釈を超えた実相を見れなければ、解釈と言う強力な道具を使いこなすことは出来ない。
この世界は解釈を超越していて、しかも解釈で出来ている。

一般の人達から見て意味不明、荒唐無稽に見える行動や奇声、動き、
精神、知的に障害のある人達のそう言う動きにも全てその秩序、その内側に入って見れば意味と言うものがある。
例えて言えば他の国の言語の様なもの。
ただ単純に分からない外国語に過ぎない。
従って言語を習得すれば良いだけだ。
問題は教えられる人がいないと言うことだけど。

僕は通訳出来るが役割は通訳者ではない。

時々、山から降りて東京へ出ると不思議な感覚を持つ。時代は勢いよく流れている。
僕は全く違うもう1つの時間を生きている。
いや、両方の時間を生きている。

昔の人は何年も山籠りした。
そのレベルの経験まで行かなければ。

毎日、走馬灯の様だ
ただ、ただ突っ走れ

このスピードに乗り切れるのは僕しか居ないと思っているから

連れて行って貰っているし、
僕が連れて行ってもいる。
そこが不思議な世界だ。

やはり繊細な技は必須
自力でも他力でも駄目。

多くの人には見えない
感じられない
何故なら心に蓋をしているから

怒涛の日々だったから最初の頃を振り替えるのも難しい。初めの数ヶ月で見たもの、経験したこと、まだ感覚が馴染まず、自分の見ている世界、経験しているものが現実では無いようだった。
SF小説の中にいる様な。

現場のことは現場で学ぶしかない。
誰も教えてはくれない。

しかし、経験は一切役立たない。
瞬間が勝負。

ここでの実践がどれだけ枠を外しているとは言っても、医者にかかってる人もいる、薬を使ってる人もいる、そして身寄りのない人は多いけど、背景には家族のいる人達、だから踏み込んだ挑戦をするには、ある程度一般的な効果や結果は求められる。
常識の範疇にいる人達を説得できる程度の結果が見せられなければ、次は殺らせて貰えない。
僕の中には最早、治る治らない、病気、健康、障害と健常、そんな境界は存在しないけれど、それを信じる人達に見せるバランスは保っている。

更には繰り返すけれど、失敗は1度でも許されず、人間相手である以上は練習、訓練も出来ない。
そして経験は役には立たない。

医者が効果をあげられなかった人達にここまで目に見える効果を出したがら、そんなところを答えとは全く思っていない。
仕方なくそこには付き合ってるけど、もっと深いところまでやらなきことには彼らのためにはならない。

専門家なんて実地の経験全くないから、使えない理論を考えてるだけ。
現場に立てば明確に分かる。

何も出来ない奴らが権威をもって方針を決める理不尽。

怪我しても死んでも構わないからもう一歩踏み込みたいと思う時もある。
でま怪我も死も許されない現場。
相手を怪我させない、死なせないと言う絶対の前提の中で自分も怪我をしたり死んだりしたら、このジャンルは開拓出来ないし、止めなければならなくなる。
そして相手を再び檻の中に送り込むことになってしまう。

最重度の人達を見る時のやり方が全てのベースである。

話せる、動ける、その部分にはある程度アプローチすることは容易に想像出来るだろう。
話せない、動けない、その人にアプローチしていく、対話していく、これが潜在意識と対話すると言うこと、昏睡状態での意識、と言うもの。
言い換えれば場における命のやり取り。

調べもしないで薬を否定したりはしない。
僕は彼らに飲ませる薬は全て1回飲んでいる。
その上で危険なものは捨てた。
結果パニック状況で暴れる人が出ても即座に対応して来た。

薬を使わないでどう言う状態になるか、それも彼らの側から入り込んで見ている。

重い精神病の人より重度心身症の人達は更に深く存在の重みに入った状態にいる。
それは比べられるものではもちろんないけど、あくまでも存在の層として。

こうして見えて来る圧倒的な情景
これを言葉で描写することはとても難しい

誰も知らない世界

誰一人ここまでやった人間はいない。
誰一人ここまで来た人はいない。

生き証人になるべきだろうか。

彼らが見ている世界が同じように見えて来るくらいの知覚を持たなければ共感など起きない。

また久しぶりに都会へ出て街を歩いた。
不思議だ。奇妙だ。
もう1つの世界を僕は見ている。

誰も挑まなかった冒険。

昨夜I君と真っ暗闇の中に無数に輝く星たちを見た。
光の粒はあちこちを自由自在に飛び回った。
僕らの心の奥に全宇宙がある。
混乱の中で、錯乱の中で潜在意識が露出されるI君の世界を共有しているうちに2人で宇宙の中心にいた。

ここでまだまだやらなければならないことがあるが、一方で出会った重度心身症の人達ともっと一緒に過ごしたいと言う思いもある。
彼らの元に行かせて欲しいと親方と話したが反対された。しかし、長時間ではないにせよ、あの場所に時には通うつもりだ。
その経験がここでも役に立つから。
人の心はどんな人も奥深くでは同じだ。

実践者が1人もいない。
誰も見えていない。
見ているところが浅すぎる。

障害とか病気を通して人間の心の層を見ている。
これは人間とは何か、と言う問であり答えである。

僕らは見てきた人間の心の深淵を。

外から相手を観察しても働きかけても決して見えない領域があると知るべきだ。

僕のやり方が独自であることは自覚している。
しかし、このやり方だけが唯一のオーソドックスだとも感じている。

人は宇宙をこの目で見ることが出来る。

混沌の中で見えないものが見える、聴こえないものが聴こえる人達の状態は簡単に言ってトランスとか変性意識状態であると言える。

僕の役割も1度彼らと同じ変性意識状態に入ってからどうするかにある。

シャーマンに近いことをやっているのかも知れない。
しかしシャーマンはトランス状態で意識を失うが、僕の仕事では意識を絶えず保たなければならない。
そこが似て非なるところ。

人間の心の奥へ潜り込み、裏側から見たり、その奥深くの深淵にある源に触れた日から、この世界は変わった。もう戻ることは出来ない。

気がついた時にはこの世界は変わっていた。

相手に入るための技術は説明出来ない。
しかしメカニズムははっきりしている。

ある意味で言うと僕には自分の人生はない。
人の中に入ると言う生き方、生業は自己を捨てるしか道はない。

沢山の人間の中に入って世界を見る日々。
もはや自分が誰か、何処までが誰なのか分からない。
分からないとは分けられないと言うことだ。

分からないとは分けられない
これは名言だ

目に見える結果、効果も初期の段階では見せなければならない。
そうしなければ信頼は得られない。
しかし、そこに留まってはいけない。

何故、医者や専門家に出来ないことが僕には容易いか。

証明、実証あるのみ

現場で通用しないものは全て屁理屈とみなす

孤独の感性
悲しみの感性
あるいは痛みの感性と言うものがあって、
それはこの特殊な領域にあっては役に立つ
だからなかなか手放せない
絶えず張り裂けるような孤独と悲しみを抱えていることによって初めて動かせる何かがある

私生活は殆どないけど、闇雲に恋愛してきた。
数限りなく
そしていつでも失敗、相手を傷つけることになる
心のどこかで上手く行ってはいけない、と言うところがあって、上手く行ってしまうと孤独の感性を手放さなければならないから
職業病だろうか

保護者の居ない人を見る時と保護者のいる人を見る時ではもちろんアプローチは違ってくる
僕の役割りはあくまでも個人を見ること
だけど家族の理解、協力がどれだけ持てるかは大きい。

社会や保護者や医者や専門家、その無理解と知識、経験の無さとの戦い。
しかし、それ以上に内部の無理解。
仲間がいない。

対象とする相手だけを見る。
たった1人でも突っ走る。

今年の別れは凄い。
この場を去って行った人達には、本当にしっかり見送れたと思っているし、必要なものは残せた。
この世を去って行った人達にも。
生命とは不思議なものだ。
死にやって繋がりが消えることはない。

兎に角今は全部やる
一刻を争う人達もいる

やれることは全てやる
実践あるのみ

この実験はいつまでも出来ないと思っている
ある意味でこれがやらせてもらえるのは奇跡と言える。だからとことんやっておく。

考えるのはあと。
整理するのは後。

僕と言う存在を通しての実験。
検証はいずれ誰かにお願いしたい。

こんなに沢山人がいても見える人はまずいない。

相手に何も感じる力が無いなら、相手に敬意を払えないならこの場から去れ。

みんながここで飼ってる犬、
急に痙攣を起こす様になって、暫く大変だったと言うことで僕が部屋に連れて来て1晩一緒に。
朝には治ってたし、その後もそう言う症状は消えた。
やはりやり方は人間と同じだった。
まあ人間の方が少しだけ難しいけど。

精神的体力は必須
吐き気、立ちくらみ、一旦全て引き受けて飲み込んで、自分の中に入れてしまってから消す
それだけではしかし個人の力に依存するからそれ以上は出来ない
そこから先をやるには自分を触媒として大いなるものに任せること、空洞になって、通り道となること

存在しているだけで価値であり意味であること、
その人がそこに居ることの重さを知らなければならない。

精神的な苦痛と言うのは人間だからこそ持てるもの。
人間の能力とも言える。

重い病を持つ人と言うのは自分よりも遥かに上なのだと思う。その病を持つだけの力があると言うことだから。

哲学でも思想でもない、
宗教なんかではない。
何かでお勉強した世界ではなく、
頭が勝手に考えている世界ではない。
体験的、実践的な現実、事実として明晰に認識する。

この宇宙と僕らは繋がっていて完全に一体であること、ぼんやりとした概念としてその程度のことは沢山の人が言っているのだけど、これを本当に見て知った人は殆どいない。
だからこの全てが1つであること、それを人の心と向き合う中で見せられることの貴重さ。

ぐんぐん潜って行くと体感でそれを知る。

僕らは実際にこの目で全宇宙を見る経験をする。

相手と一体だから相手が分かる。

時間が止まる。

心の奥へと一緒に潜って行く
この実践は源流を辿る旅であって、
行き着く果てはこの全宇宙が一つである景色。
そこまで行けた時、現実的にも効果があるし、何よりみんな楽になる、それは何度もやってきたこと。
多くの人は垣間見るだけだけど、それでも貴重なこと。生まれて来た生命はその意味を求めている。
その意味はこの源の情景を見ることによってしか満たすことは出来ない。

一瞬で全てを知る。

もっとシンプルな言葉で言おう。
変な精神世界の話とは違う。
僕らは命の駆け引きの中で具体的な身体を使って実践してきている。
人の潜在意識にアクセス出来ると言うことは、この全宇宙のメッセージを聞き取るとこ、読み取ることが可能であると言うことだ。
全ては一つでありその声を聴くことが出来る。

人の心もこの宇宙も波動で出来ている。
光の波動の様なものだ。
それは想像ではなく、素粒子物理学の様な科学の研究データでもない。
目の前の人間の心の奥に実際に見えて来る事実だ。

幻覚症状が続くFと5時間話し続けた。
そのままFは深く眠った。
同じ、同じ、ここ来てみんなといる様になってから僕もそれそれ経験してるよ、って話していた。
実際にそうだ。
彼はいくつもの世界に連れて行かれるから、自分が今何処の世界にいるか分からないと言う。
寝て起きたらまた同じ年の同じ日にいたり、気を失って目覚めたら未来の何処かにいたりすると言う。
同じ日の違うバリエーションの現実に居ることもあると。と言うことはこの現実は無数に存在する。
現実は1つではなく、今いる現実が無限の中の一つだと言う。
それから気を失っている時に意識がある時があり、その時は電車の様な移動する乗り物にのって、無数の現実を見ているそうだ。
景色が次々に変わって行って、今のこの現実も過去の様にそこから眺めている、と。
この世界そのものが大きな夢でその乗り物からそれが見えると。
そうだね、そうだね、僕もここへ来てからずっとそうだよ、と話した。
彼らの心の内側の世界は単なる妄想ではない。
それは1つのリアリティの形だ。

ここは山の中。
これが海辺であったら共同体もメンバーの心の在り方もまた違ってくるはずだ。
どちらが良い悪いではなくて、環境は深く人間に影響を与えている。
山は何処までも深い。海は何処までも深い。
人間の心は深い森の奥の様だ。

Kの自殺しようと思って富士の樹海に入った数日の話、面白く、興味深かった。
帰って来てしまったと言っていた。
Kの心の中は樹海の様でそこで日々暮しているから、道が無くても迷っても帰って来れてしまう。
ここも樹海みたいだ。

単純な言い方をするなら、のっぴきならないとか、追い込まれたとか、要するに極限状態にいる人達が相手であり、そう言う時の人間の感覚の鋭さ、そのスピードや正確さについて行けなければ何も出来ない。
つまりは一瞬一瞬が修羅場と言える。

遥か向こうの枯葉の落ちる感触、針が地面に触れる音が聴こえる感覚、そこまで研ぎ澄ませなければならない。

心の完全なコントロールは癖にして自動的でなければならない。
例えば自らの恐怖心、何かが起きた瞬間、即座に気づいて場を見る。恐れは誰かに伝播する、それを避けて適切な動きを産むにはまず、恐れを場に残さない、相手に気づかれない、場を固めない、その配慮が必要となる。喜びや悲しみや怒りや苦しみ、どの感情も同じ。それらに飛びつかないこと。起きた瞬間を捉えて適切な場所に置かなければならない。
逆にこれらのナチュラルな感情を外へ出した方が良い場面、そのひとつに共感を起こしてきっかけとする等がある。その場合も最初に気づくからこそ将棋の駒の様に最適な場所に置くことが出来る。

無意識の領域に入りながら意識を保つこと。

本当に美しい
この世界に居ること、その景色を共有出来ること。
深くまで行かざるを得ない人達が相手だからこそ、ここまでのものが見えて来る。

上手く器用に生きること、賢くやれることは魂の弱さなのかも知れない。
社会的成功者は小手先でしか生きられない浅い人間かも知れない。
その逆の人達から見るなら、全く違う世界が見えてくる。

1人になる必要がある。
そうすることでより深くみんなと繋がる。

この実践に終わりはない。
自分が開拓者なので基準を残しておく責任もある。

途方もない。
心の全領域、表面に現れたものを扱い、その奥の無意識や潜在意識をも扱い、更にその奥にある宇宙そのもののようなエネルギー体の情報まで読み解き、通底し、対話する。

行き着くところまで行き着いた果てからまた、最初ほ地点に立っていなければならない。

そこで、おー、って、今日も会えたね、ってそこだけで全てが通じて響き合える景色。

場所、時代、人、ほとんど有り得ない程の条件がギリギリ揃ってこの実践は出来ている。
出来なくなる日は来るだろう。

今が場にとっても自分にとってもピークなのかなと思う。

アスリート界隈の人達の言うゾーン。
ゾーンに入ってなければ場でのギリギリの判断、自然な動き、自覚を保ったままでのオートマティックな反応、必須条件であるこれらの実現は難しいだろう。

最近の読書で分かったことでもあるけど、
僕と同じ様な体験をしている人が、全く別のジャンルや領域にはいると言うこと。

人間の心、意識とこの世界、この宇宙を生み出している力は同じ一つのものだ。
根源にあるのは光、エネルギー、波動の様な純粋な限定のない動きだ。
僕らは人間の心の奥深くに降り立つことでそれをこの目で見届けている。
それも1度ではなく毎日の様に。

亡くなって行った人達、去って行った人達、
そして通り過ぎて行く人達、
1度でもこの場を共有した仲間とは心の深い場所で繋がっている。

この世においては別れかそが常なるもの。

見せた景色が全て。
綺麗だったでしょう、と言い切れる。
あのみんなの笑顔。

全員を主人公にさせて描き切る。
それがこの場である。
毎日、フルキャスト。

いつか誰かが気づくだろうか。
気づかせられるだろうか。

信じてくれた人達との約束がある。

遠い遠いところまで来てしまった。

世界へピースする
そんな絵をこの場で描く
この人達と一緒に

バイバイN君
たった2ヶ月が何十年、いや一生、いや永遠のような時間だったね
この世においてはもう会うことはないけれど、僕らの過ごした時間はずっと永遠にここにある
僕らが出会うことは最初から決まっていたのかもね
見せてくれた世界
もう忘れることはないよ

これら全てのビジョン、心の全領域を刻んだ莫大なデータ、記号を刻みつけて、僕はまだまだ走る



























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