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心の深み

今日は月に一度の出張クラス。
地道に続けて来た地元施設での絵画の時間も1年が過ぎた。これまで沢山の場に入り関わって来た。
一口に制作を見ると言っても、僕の関わり方は特殊なものだと言うことに、現役を降りたからこそ改めて深く実感する。
まあ、何度も言って来たことではあるけれど、制作の場に関わること、制作を見ることとは、相手の心の深みへと共に潜って行くことであり、それは何と言うのか途轍もないことである。

雰囲気良いとか、楽しそうとか、そんな何となくのことではなく。もっと言えば凄い作品が生まれると言う地点ですら通過点、或いは過程でしかない。
本当に場の本質にあるものを殆どの人は見たことがないし、見ることが出来ない。
でもそれは仕方のないこと。
共有出来るのは作家本人とだけなのだと言うことを、最近改めて強く思う。

一緒に深みまで行ったからこそ共有されている世界を、他の人間にまで伝えることは難しい。

でもその秘密を、固有性の徹底にこそ普遍性があると言うことを、僅かでも感じとって貰うためにこそ、言葉も経験の共有もある。

場を最初に自覚して探求の日々だった信州時代は、実はまだ外面的な出来事として語りやすい部分もあるけれど、東京での20年はなかなか言葉で表現することが出来ない。
あの20年が意味したものを何とか伝え切って死ねるのか、最近ふと考える。

トークや講演をよくやってきたけど、僕は単なるお話会をしない、そこで大切なことは経験をシェアすること。いや経験ではないな、体験かな。
だから誰かと、そこで一緒に場に入って行く。
それはトークでも制作の場でも同じこと。

色んなやり方がある
色んな生き方がある
色んな選択がある

僕の場合はいつでも誰かと、その相手と一緒に見つけること、その人が生きる力を、活きて来る瞬間を、その人の本質へと到達することを、そこへ向かって行くことを通して、この世界、宇宙、生命の奥深くへと旅して来た。

どこにも存在しなかったジャンルだけど、
それをスタイルもろとも形にしてくれたのは出会った一人一人と場と、場での自分だった。

気がつけば遠くまできてしまった。

人間とはどこまでも奥深い存在である。
この世界は一言で言えば美である。

全てが輝いている。

それが見えたらそこがゴールであると同時にスタートだ。場は繰り返す。
人と会い、共に入り、一緒に見に行く。
何度でも。
その人の心の奥深くへ。この宇宙の全てがある場所へ。出会いの数だけ、場の数だけ無限のプロセスを踏む。しかし辿り着く場所はいつでも同じ。

あ~、綺麗だなぁ、素晴らしいなぁ、って。

無数の生が、無限の場面が交差する。
永遠の一瞬が同時に駆け巡る。

何度も言って来たけど、制作の場は神聖なものだ。

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