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心を亡くした果てに・・・

みなさん、こんばんは。綺羅です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


昨日は久しぶりに、PS4を起動させてゲームをしたのですが、操作方法をキレイさっぱりに忘れていました。

コントローラーのボタンの位置も、あたふたしながら、いじっていたのです。

ゲームが習慣だった時には考えられなかったことで、ものを忘却する力も、人間に備わった強い力の一つだと、感じました。


私は4月から、実生活において、「忙しい」「忘れた」を極力使わないようにしています。

代わりに「今はできないけれど、○○が終わったらやる」というふうに行動しているのです。

私自身が「忙しい」「忘れた」を乱発したところ、自分で自身の心を傷付けることになると、実感したからです。



😭

私の以前の実生活では「忙しい」「忘れた」が常套句のように飛び交っていました。

職場でも「忙しい」「忘れた」、家でも「忙しい」「忘れた」が日常会話の中で、普通に使っていたのです。

素直に「忙しい」とか「忘れた」を言うことが悪いとは思わないのですが、その言葉を乱発することが、相手を傷付けるのはもちろん、なりたい自分から遠ざかっていく言葉だと、分かったのです。


特に、家族には本当に申し訳ないくらいに「心を亡くす言葉」を乱発しました。

職場で頑張っていた頃は、職場での精神的な疲れを癒すべく、主にゲームや他のSNSに没頭していました。

没頭していれば、職場で感じていた、あるグループがある人に向けていた陰口や、影での仲間外れといったドロドロとした感情に飲まれずに済むからです。

今から考えると、そのドロドロとした感情は「あなたもあの人がムカつくって思うよね?!」という、柔らかな同意の仮面を被った「同調圧力」だったと思います。

そのドロドロさを避けるためには「忙しい」と「忘れた」という言葉を使って、他のことを忘れてしまうくらいに、一つのことに没頭して、自分を癒すことが一番だと考えていました。

ですので、家族が私が趣味をしている最中に、

「楽しんでるみたいで、よかった。」

と言ってくれたにも関わらず、私は、

「今忙しいんだから、話かけないでよ!」

と、きつい口調で言ってしまうことが多かったのです。


他にも、別の場面で、友人間との間でご飯を食べに行こうと約束していたけれど、所定の時間になっても来なくて、心配になって連絡すると、

「ごめん、忘れてた。今日はちょっと無理っぽい!」

と、簡単に文字で済まされることもありました。

ですが私は、そうしたことが起こるたびに怒ることもなく、

「わかった、そういう時もあるよね。また行こう!!」

と、笑顔の絵文字を送って返していました。

人といるために、自分が感じたモヤモヤを黙殺し、自分が感じることを自分で許さなくしていたのです。


ですが、ある時に気が付いたのです。

普段の生活で使われるように、周りのみんなと同じように「忘れた」「忙しい」という言葉を使っているだけなのに、

使えば使うほど、自分の内側が「何か」に喰い荒らされている感覚

になったのです。

どうしてこんなことになるのか、じっくり考えてみました。

私が「忙しい」「忘れた」に引っかかっている部分は、

「自分が”心を亡くしている”ことを理由に、自分を正当化できるのだろうか」

と、思ったのです。



😭

「忙しい」「忘れた」を使うことが、悪いことだとは思いません。

ですが、使う場面を間違えたり、乱発したがゆえに相手との関係がこじれる可能性があるのは、肝に銘じておかなければならないと、思うのです。


私の場合、母は胃がんで胃を全摘して、動きにくい身体であるにも関わらず、いつも職場で食べるお弁当を作ってくれていました。

少しでも休んでいたいと思うのに、硬直する身体を引きずりながら、台所に立ってくれていたのです。

その思いを当然の如く受け取って置きながら、頼まれた用事を「忙しい」と言い張って避けていた自分を、張り倒したいと思います。

後から母に直接聞いた話では、やはり「忙しい」の一言がきつかったと、教えてくれました。


また、私が友人から「約束を忘れた」と言われた時も、

「謝られたから許さなければ仕方ない(でないと、一緒にいることはできない)

と、強く思っていました。

このことが2~3回で収まるのではなく、常態化していたので、私の心はまちがいなくモヤモヤしていました。

本当は「忙しい」「忘れた」を軽々しく使われるのが嫌だったのです。

でも、その時は「人と一緒にいられる」ことの方が、自分の心を追い詰めて壊すことよりも、大切でした。


得られたものは、ボロボロに傷付いた自分の心と、心を亡くしたことを盾にして心の「痛み」に鈍くなった私でした。

私にとっての「忙しい」「忘れた」は、心を蝕むキラーワードだったのです。

そうして自分で自分を殺す言葉を使って、私は私の心に自傷行為を繰り返していたのだと思います。

ですが、それに気付くには、心の痛みを感じることに「鈍感」になりすぎていたのだと、今では考えています。


言葉には、言霊が宿ると言われています。

普通に使われている言葉でも、自分が使って違和感を覚えるのであれば、それは自分にとっての「心を亡くす言葉」なのかもしれません。


私は「忙しい」「忘れた」の単語を、聞くのも見るのも極力避けるように徹底しています。

人によっては、私を「こんな考えが固い奴、嫌だ」と思われるでしょう。

ですが、これでいいと思っています。

今まで、自分で傷付けてしまった自身の心を癒すことも、私にとって、自分の大切な人生の仕事なのです。



😭

トップ画像は ろこ|デザインと舞台様 からお借りしました!

ありがとうございました。


みなさんからの、スキやコメントやフォローも嬉しいです!

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました。


それでは、今日はここまでです。

みなさん、言葉とのいい関係を。



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禧螺
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