しばらく日記を書いてなくて、もちろんそれは就浪でなくなったからというわけでもなく、その間に色々なところに行ったり色々な人と会ったり色々な本を読んだり色々な隣人DQNの騒音と戦ったり色々な母親との喧嘩を経たり色々なお祈りメールを貰ったりしていたら面白いのだけれど、そんなわけもねぇのである。だが実際、行ったところも会った人も読んだ本もあったし、騒音も母親との喧嘩もお祈りメールもいくつか、私にちゃんと降りかかってきたのだった。 それとも、それはともかく、頭のなかで
よく晴れた。よかった。
曇っている。曇りの日は嫌いで、いつも完璧に晴れていてほしい。頭が中心めがけて生温い意識が逆向きの円錐形みたくぐでぇ~っと注がれてすぐに眠たくなって実際に眠る。そういうときは歌を聴く。 はるまきごはんのボカロ曲を聴く。この人の『八月のレイニー』や『Tender Rain』は名曲で、あやうく雨の日が好きになりそうになる。すぐれた作品は鑑賞者を、一介の消費者からあやうさに引きずり込む。他にも『メルティランドナイトメア』や『アスター』や『ドリームレス・ドリームス』、
具体的なことを愚痴るが、エントリーの仕方が企業によってバラバラなのは本当にやめてほしい。ある企業は全部就職情報サービスから登録させ、ある企業は自分のところのマイページ登録から始まり、ある企業は就職情報サービス→自分のところのマイページ登録、または自分のところのマイページ→就職情報サービス→自分のところのマイページから説明会や試験やエントリーシートの登録、または説明会・試験・エントリーシートのどれかひとつあるいは二つを就職情報サービスかマイページでさせる企業、就職情報サ
5月5日(水)の日記は「祈られる。」という一文から始まる。しかし、これは書いてからしばらくして気がついたことなのだけれど(だから実は5月5日(水)の日記を投稿した直後である今、5月7日の3時17分に急いでこれを書いている──あ、今18分)、この祈られが発生したのはよく考えれば5月5日(水)ではなく5月6日(木)、つまりこの日なのであり、この日はめっちゃ晴れた。めっちゃ散歩日和であった。雨なんか降っておらず、だから犬の糞の絵本の話も最後の「全部、雨と祈りが悪いのだ」とい
祈られる。 祈った数だけ地獄に堕ちろ。 雨なので散歩もできず低気圧にタコ殴りにされるクソな日なのだが、祈られたことによりさらにクソで、つまり自分がクソで、クソの気分がわかる。道端の放られたクソは、たぶん消えたくて仕方なかっただろう。昔、道端の犬の糞の視点で物語が展開される絵本作品を読んだことがある。そのラストで、道行く人に疎まれる自分を恥じて落ち込む犬の糞を見かねた雑草が、君がそのまま雨に打たれて舗道に溶け出し隙間を伝って流れてくることによって私たち雑草の養
ああああああ精神つらいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!名前変えた。「颪」改め「すごい勢い」。幼さが減り、バカっぽさが増えた。いい名前だと思う。 さすがに何日もおんなじ散歩道は飽きるかと思いきやそんなことはないというか、私は場所にそんなに飽きない人間なのかもしれない。安住できればできるほどいい。人生の置き場に対して保守的なのだ。これは自由でグローバルな今の社会で暮らすとしては最悪のスタンスで、たぶんもう暮らせな
『意味という病』読了し、次はさやわか『世界を物語として生きるために』青土社。 散歩を賛美する日記を書くくらいには落ち着かない一日だった。 何かしら論題がなければ気が済まないくせにディベートが壊滅的にヘタクソな人間が集まる(私ももちろんその一人であるにちがいない)SNSであるTwitterでの現在のトレンドのうち、キズナアイ騒動や宇崎ちゃん騒動や森発言騒動やショタドール騒動や学術会議の任命拒否騒動や呉座騒動やcakesの記事炎上騒動やポテトサラダ騒動やあいト
晴れている近所を歩く。日向が楽しい。無理して楽しくなくなることはないと思うのだが、みんな散歩は必ず人か犬を連れている。あるいは目的を時間の先に用意してそれは道の先でもあって、そこへ向かって歩いている。 きつい時はきついなりの仕草があり散歩はそこに含まれないのか。含まれない。けれどそれは散歩が悪いんじゃない。私が悪いんでもない。何が悪いかは解らないが何かを悪くすればいいとは思う。それで気が晴れるなら。 百文字で段落を切ってそれを十個。これが今日の日記の条件である。実は、もう
無性にイライラして雨が降って雷が落ちてずっと部屋で眠っていたこと以外になにも書けることがない。なにも言葉にならない。
『メイスン&ディクスン』下巻読み終わり、次は江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発』早川書房。 祈られる。 今後、その企業は地球環境云々持続可能な社会云々SDGs云々は一切言わないでいただきたい。人を「祈り」だの「縁」だので蔑ろにした先にある「地球」「環境」「社会」とは一体なんだ? 就活において「祈り」「縁」という言葉が乱用される欺瞞について、なぜ誰も指摘しないのだろうか?あるいは私が知らないだけか。人がこれからどうやって生きていく
怒りに任せて書く。今さらながらnoteに「就活体験記」というタグがあることを知るが、反吐が出る。就職に成功した者にとってそれは「体験」するものだったのか。一際記憶に残るだけの、一過性のものでしかなかったのか。つまり、noteの意識高い系な文章のネタになるレベルの話しかなかったのか。そんなものがこの就活という欺瞞だらけの、人を殺めるだけにあるような社会の規範を内側から崩すような言説になるわけがなく、せいぜいあるのは自分の苦労の肯定と、「試練を与えてくれて自分を成長させる
昼にビックマックを食べている場合ではなかったので、パルムにしておく。やはりおいしい。食べる者の口にも棒にも濃い甘さがまとわりつくという棒アイスの役目を果たしている。自分の役割をわきまえているお菓子というのは強い。森のせいで「わきまえる」という言葉自体がポリコレ的にNGワードになっているのだが(そんなポリコレは表面的なだけで何も変革し得ないと思うが)、やはり「わきまえる」は良い。社会にではなく、世界と自分の関係をわきまえることでその画定を目指すことは、持続性を補強するこ
昼にビックマックを食べる。昼にビックマックを食べている場合ではない気がする。冬の嫌いなところは昼間が短いところなので、最近はただ過ごしているだけで嬉しい季節になっている。明るさで時間を考えると、昼の短い冬場はその時間の流れの速度についていけない。1日のうち、太陽を一度も見ずに過ごすことすらも多々ある。 よくわからない会社説明会をWebで受けるが、URLが機能しなかったりリクナビの不調などで企業側に電話をする。こういうことが最近多くなる。やる気がどんどんなくなっ
母親が仕事のストレスで眠れなかったということで体調不良なのだが、こういうときはいつも以上に自分のクズさ加減を痛感する。昼間に公園のベンチで、グラビア動画が半額セールだったので買ったりバイトを応募した後すぐにキャンセルしたり、いやそれより、まず飯をろくに作れない私のような無職寄生厨というのは殺厨剤で今すぐ死ぬべきで、それなのに事情を聞いて夕食のキムチ鍋を母親に教えてもらいながら作っている最中、母親に嫌な顔しながら悪態をついてしまった。人として最低な行為だというのはもちろ
ほぼ寝ていた。ESは書いた。晴れていたのに外にも出ず風が強く、部屋のなかで夜になるにつれてテンションだけは高くなり亀田の柿の種を一袋持ちながら、新人歌い手の『うつけ論争』とかの歌ってみたとかBAD HOPの新しいアルバムとかを聴きながら、夜中ずっと部屋をうろうろしては、『メイスン&ディクスン』上巻は100ページくらいしか読めなかった。柿の種は食べなかった。パルムが食べたくなったが少し寒かったのでやめた。暖かったら夜中でも買いに行ったのだろうか。 最近は夢のなか