4月30日(金)

   『メイスン&ディクスン』下巻読み終わり、次は江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発』早川書房。

    祈られる。
    今後、その企業は地球環境云々持続可能な社会云々SDGs云々は一切言わないでいただきたい。人を「祈り」だの「縁」だので蔑ろにした先にある「地球」「環境」「社会」とは一体なんだ?
    就活において「祈り」「縁」という言葉が乱用される欺瞞について、なぜ誰も指摘しないのだろうか?あるいは私が知らないだけか。人がこれからどうやって生きていくかの重要な選択を社会から迫られる際に、当の社会の方が「縁」という言葉を用いるのは人権の観点でどうなんだ。日本って一応文明国なんだよな?資本主義を形作る労働者の選別が「縁」とかいう意味不明なオカルトめいた屁理屈未満のふざけたシニフィアンでなされるという現実がなぜ黙認、あるいは大々的に認められているのか、奇妙であるとしか言いようがない。現代は、都合のいいところだけ前近代的であり、それらのタチの悪いところはそれが普遍的であると勘違いして、私のようにそれを必要としない人間にも、所作の細かいレベルや言葉のひとつひとつまで寄生しようとする点で、それはわけのわからない占い師や疑似科学を、マジで良かれと思って、あるいは儲けるために紹介するマスメディアや、それこそ「縁」「祈り」といった事務としての疎外の口実に使う社会なども、そのタチの悪さを助長している。そしてこのオカルトめいた事務を、採用側のみならず就活生側まで受け入れているのは、一体なぜなんだろう。私にはわからないが、多くの日本人にとって理不尽なことを理不尽だとは言えなくなる効力が「縁」という言葉にはあるらしい。あるいは、その制度を乱用するのが資本主義社会であることを知っていて、当世の唯一神である資本主義社会様に楯突くことは死を意味するから、折衷案として資本主義社会様側が呈示してくださる「縁」「祈り」という言葉を受け入れることは、むしろ有り難き幸せであり畏れ多いことですらあるという意味合いで、みんながそれを受け入れているのかもしれない。同じことは「努力」「才能」「成長」「運命」「やる気」等の言葉にも同じことが考えられる。これらを小さな頃から内面化しつくしてきた人たちにとって、そこに新たに「縁」「祈り」等か足されること自体どうってことないのかもしれない──曖昧な言葉は、常に社会様から下賜される。
     奴隷根性とはつまり、自分の言葉を自分より大きなものからしか得ることができなくなるパーソナリティである、ということが、それを内面化している他の就活生どもを見ているとよくわかる。それは語彙力や知識・教養ではなく、自分の文脈、価値判断の基準などが自らでは全く培われなかったあとの状態のことをいう。そしてそうでなければ社会人にはなれず、「縁」も「祈り」も自然として受け入れることはできない。それを信仰しなくては生きていけない。
   「縁」「祈り」に基づいた就活を他人に強要しそれを受け入れる限り、私たちは、世に蔓延るカルト宗教やスピリチュアルや陰謀論やパラノイアや地方の古びた風習や、過激派のテロや、感染リスクをガン無視してコロナ終息を祈願した年始の参拝客に至るまで、またはポピュリストに懲りずに群がる馬鹿共とも、揃って同類であり、それらを嘲笑うことなんて許されない。眩暈がするような歪んだ社会であるが、少なくともその言葉を乱用している企業には、自分たちの営利目的以外の存在意義はないと言っていい。したがって地球環境やら持続可能な社会やらSDGsやらは初歩的な段階で方便であることがわかる。全部嘘っぱちである。社会にとって言葉は、嘘を真実に見せかけるためにのみあると言っていい。そしてそれが単に見せかけであることを暴くのも言葉において他ならない。その堂々巡りのなかで、私の生は静かに、そして喧しく滅びていく。

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