4月26日(月)
母親が仕事のストレスで眠れなかったということで体調不良なのだが、こういうときはいつも以上に自分のクズさ加減を痛感する。昼間に公園のベンチで、グラビア動画が半額セールだったので買ったりバイトを応募した後すぐにキャンセルしたり、いやそれより、まず飯をろくに作れない私のような無職寄生厨というのは殺厨剤で今すぐ死ぬべきで、それなのに事情を聞いて夕食のキムチ鍋を母親に教えてもらいながら作っている最中、母親に嫌な顔しながら悪態をついてしまった。人として最低な行為だというのはもちろんだが、大学まで出さしてもらって現在無職ニートをきめこんでる立場の人の態度としては、端的に頭がおかしいとしか言い様がない。クズを矯正する病院に入りたい。というか、もうちょっと早めに死んでおいたよかったんじゃないか、私は。すべてこうなる前に。もしくは元からこうなのだから。
でも死にたくはならない。かなり、かならず、ならない。
誰にでも明日が嫌で嫌で眠れないよるというものはある。私には昔からそれが、全面的に自分が悪くどうにも言い訳のできない失態の処理をしたり処断されたりする予定が明日に控えている場合であり、みんなもそうなのかと思っていたが、どうもそうでもないらしい。みんなは、例えば人から借りたものを失くしたことを釈明したり、散々提出を待ってもらっている課題をやらないでいたのを公表したり、人を傷つけたことに謝罪したり、その他誰かに謝らなければいけなかったり、公的機関からの処分を受けに行く予定のある明日というものを、子供のうちからあまり体験したことがないらしい。
にも関わらず、みんなにも眠れない夜があるというのはいったいどういうことなのか。私にはわからない。自分のせいでもないのに自分に何かしらの嫌なことが降りかかるのは、単に世界が理不尽なだけで、それならこちらから一方的にその理不尽を憎んでやれば済む話で何も気を病むことはないのではないか。
それでも例えば母親などは気を病むらしい。私にはそれが理解できない。自分が悪くないのなら堂々としていればいい──といった悪態を、夕飯作りの手伝いを頼まれた際についてしまったのであり、少なくとも辛い状態にある家族(+大恩人)に差し向ける言葉ではなく、万死に値する。
このように、私は昔から万死に値するのには慣れている。むしろ重要なのは、本当に世界で私ひとりが悪いであろう案件のなかでどんな振る舞いをするかだ。その開き直りの様式、怨み節の作法である。私はいつも自分を罪の意識から救うためにフィクションの世界を──さらにいえば、何か言葉を紡ぎ、連ねていくだけでできる、自分の認知する世界以外の部屋をもうひとつ作って、その六畳一間くらいの治外法権に身を寄せる。身というか精神をちょこんと座らせて、問題が過ぎ去るのをひたすら待つのだ。『めだかボックス』に登場する、私の敬愛するキャラクターである球磨川禊は「『僕は悪くない』『だって』『僕は悪くないんだから』」といった定言的でトートロジカルな発言をしていたが、私にはそれができないので憧れるのである。「私は悪いが、それでも救われるべきだ、なぜなら……」の「……」の部分を燃料にして、私はこの日記を書いていたりする。私がどんなにクズでも、世界全体で見て適当に他人たちを切り取れば私と同じくらい、あるいは私よりクズのようにも見えるし、むしろ私がクズなのはその他人たちがクズだからで、根から腐ってるダメな作物ができるのは土や気候や育て方などの成育環境がダメなせいなのだから、むしろ私がクズであることは結果としては正当な状態であると言えるし、だから私はどんなに万死に値しようと、結局は救われるべきなのだ……という言葉の連なりを、辛くなる前に、辛くなったり、自分が心底嫌になったりしながら、その都度確保しておく。貯め続ける。それらは決して正義にはなり得ない。私は私以外への完全なる加害者として生きなければならない。でなければ人として優しくなることもままならない。誰と約束したわけでもないが、これは私との約束だ、私は死ぬわけにはいかない。
この日記を書き始めて一ヶ月が経過した。大学生じゃなくなって一ヶ月が経った。経ったというか絶った。季節はかわり、お先真っ暗なのは何も変わらない。ただ、未来の見えなさが少し濃くなって、春は絶たれ、言葉だけがどこかに連なっていく。